風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

言い訳

2009-05-18 | 風屋日記
  ふと気がついたとき、直子の話はすでに終わっていた。
  言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。
  正確に言えば彼女の話は終わったわけではなかった。
  どこかでふっと消えてしまったのだ。
  彼女は何とか話し続けようとしたが、そこにはもう何もなかった。
                (村上春樹:著「ノルウエイの森」より)

何を書いても既視感があり、
意図して新しいことを書こうとすれば平凡な日常の日記になってしまう。
的確な表現も思い浮かばず、紋切り型の文章だらけ。
社会的なこと、国際問題などについて訴えたいことを書こうとすると
以前と違ってだんだん息苦しい気持ちになってくる。

私はいつも風屋日記の記事を
多い時で1週間分、少ない時でも1~2日分書きためていた。
(もちろんその日の気分やネタで変えることもあったけれど)
モグと散歩しながら、朝の通勤電車から窓の外を眺めながら
あるいはぼんやりタバコをくゆらしながら
新しくUPする記事について考えるのは楽しかった。
駅のホームからでも、ランチ後のコーヒーを飲みながらでも
あるいは夜ふとんに入る前のほんの数分を使って
携帯から記事をUPしたり、ネタをメールで送ったりした。
(ネタはいつくか集め、時間がある時に集約して記事にUP)
そんな時間の使い方も割に楽しいものだった。

4月も半ばを過ぎた頃ぐらいからだろうか。
書きためることもできず、新たな記事を考えることが辛くなり
毎日惰性でその日その日のおざなりな記事を続けていた。
それらをUPすることにも嫌悪感が募ってくる。
GWが終わり・・・もうダメ。書けない。
風屋日記として語るべき言葉がどこかへ行ってしまった。
長らく独りよがり、自分勝手にズルズルと語り続けてきて
突然「言葉のきれはしがもぎとられて空中に浮か」び、
話は突然「どこかで消えてしまった」ようだ。

  心に浮かんだ言葉を文字にして書きつけていく。
  それは手と目と心の動きが連携した高度な仕事だ。
  そういうとき脳の中では、
  知性と感性が最高度のつながりを持って動いている。
  ぼくたちは悲しいと書くと実際に悲しくなり、
  底抜けにたのしいと書くと、どこか弾むようにたのしくなる。
  秋の終わりの空と書けば、抜けるように澄んだ高い青空を思い、
  秋の日と書けば熱のない穏やかなオレンジ色の日ざしを想像する。
  そうした喚起力のすべては、
  その人が生きてきた時間の中でたくわえられた
  無数のイメージや記憶に支えられているのだ。
  手と目と心の関係がどこかで切れてしまえば、
  言葉を文字にして書きつけ、
  それで自分を表現することは絶望的に困難になってしまう。
                 (石田衣良:著「美丘」より)

まるで魔法が解け、一時の夢から覚めて、
気づいたらかぼちゃの馬車に乗っていたみたいな感じ。
仕事の上でも大して役に立たず、家庭での役割もほぼ終わり、
いつの間にか、これといった趣味すら持っていない
しょぼい中年オヤジがポツンと鏡に映っていた。
これが、これから死ぬまで続くワタシのホントの姿です。


※もうしばらく休んでみます。
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