風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

100年目の命日

2022-11-29 | 文化

日曜日の夜は、茶寮かだんさんにて
5回続いた「宮澤トシ没後100年記念イベント」の最終回。
「トシが息吹く、イーハトーブの音風景」セミナーが行われた。
茶寮かだんさんには賢治さんの妹クニさん愛用だったオルガンがある。
講師の太田代政男先生が、時折そのオルガンを弾きながら
小学校時代〜花巻高女時代〜日本女子大時代の音風景を語り、
そのあとで石原黎子先生による、賢治さんの詩「無声慟哭」三部作と
生前トシさんが書いた「自省録」の一部朗読があった。



まずは太田代先生からの「音風景」の話に得心。
「サウンドスケープ」と言い表していたが
確かに音楽にはそれを聴いた時の周囲の情景や心象風景がともにある。
我々より少し上の世代にはグループサウンズが音風景だったろうし、
私と同世代の人たちにとってはフォークやニューミュージック。
ちょっと下はシティポップスのように
青春時代に流行り、想いを込めて聴いた音楽が音風景に繋がる。
私が「名曲」と思う曲が、今の若者にも刺さるわけではない。
聴いていた当時の風景が音楽に乗せて心に届くのだ。
トシさんには花巻高女の校歌だったり、日本女子大の愛唱歌だったり。

そしてその中で興味深い話がふたつ。
ひとつめは「君が代」に関することだった。
明治24年に、時の政府は「小学校祝日大祭日儀式用唱歌」を制定。
その中で「君が代」は「唱歌(!)」として
「天皇の治世を奉祝する歌」と定められたのだという。
詞はもちろん古今和歌集の読み人知らずの歌だが
それにメロディーがつけられたのは明治13年とのこと。
つまり「新政府による天皇親政を図るための歌」だったということ。
昭和初期にはそれが国歌と定められ、平成11年には法制化された。
靖国神社同様「明治政府による意図的に作られたもの」だったわけだ。
それにしても「唱歌」だったとは。
そういえば私が小学校の頃の音楽の教科書には
「国歌」や「唱歌」の記述もなく
唐突に「君が代」の歌詞が載っていて不思議に感じた記憶がある。

もうひとつ。
トシさんが女学校時代、
東京音楽学校を出たばかりの新進気鋭の若手男性教諭をめぐり
ほかの女生徒との三角関係を新聞に書かれた事件があった。
もちろん貞操が倫理とされた時代、具体的なことは何もなかった。
単に「エリート音楽教師への憧れ」だったろう。
狭い花巻のまちなので、当然まち中にその噂は広がる。
トシさんは深く傷つき、家族も胸を痛めて
とうとう卒業後は一旦花巻を離れるべく日本女子大に進学したらしい。
大学卒業後、まだ噂話が燻っていた花巻に
体を壊したりしていたトシさんは帰省せざるを得ず、
しかも辛い思い出がある母校の花巻高女の教員になることとなる。
そのタイミングで書かれたのが「自省録」だ。
忌まわしい過去を自分の責任と感じ、
それを昇華すべく信仰に生きようとした。
結局1年でまた体を壊し、教職を辞してしまい
その数ヶ月後に亡くなってしまうのだが
元凶となった新聞記事は政争によるものだというのだ。
旧花巻町と旧花巻川口町は、2大政党それぞれの強力な地盤。
当時県内にあった2大新聞もそれぞれの政党に付いていた。
宮澤家は花巻川口町の実力者。
旧花巻町の立憲同志会および支持する岩手民報が
政友会の支持母体だった旧花巻川口町の実力者を腐すために
あえてスキャンダルを掲載したというのだ。

賢治さんがトシさんの死を悼んで読んだ詩「無性慟哭」三部作は
巷間「1番の理解者だった妹を失った悲しみ」と言われるが
それだけではなく、その苦しみに満ちた22年の人生を
不憫に思って詠んだものではなかろうか。
そう思いながらオルガンの音を聞いていると
「賢治の妹」と取り上げられることが多い「宮澤トシ」という人が
この時代を苦しみながら生きたひとりの女性として
リアルに感じられてくる。
そんな悔いの残る短い人生を送ったトシさん。
このセミナーが行われた11月27日は
そのトシさんが亡くなって100年目の命日だった。

ほかにも数々の歌とともに興味深い話の数々。
本記念事業の最終課にふさわしいものとなったのは
事務局を仰せつかった者として、とても有意義だった。

セミナー後の会食も、ひっつみが美味😊
コメント
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