風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

モノサシ

2022-11-26 | 社会
スポーツが得意で、おおらかで細かいことは気にせず
時折馬鹿馬鹿しいことに懸命になる、子どものような無邪気さを持ち
仕事となるとバリバリこなし、頼り甲斐もある、
気は優しくて力持ち。
そんな人は「男らしい」と称される。

料理や裁縫が得意で、細かいところによく気が付き、
愛嬌があって明るい性格。
目立たないところでそっとサポートすることができて
子どもや弱い人たちに優しい。
そんな人は「女子力が高い」と称される。

私は得意ではないけれどスポーツが好きで、
馬鹿馬鹿しいことに血道を上げることもよくあるけれど、
裁縫や手芸が好きで、大して力持ちでもない。
それは果たして男らしいのか、女子力を持っているのか。

「かくあるべし」「男らしく、女らしく」「歳相応に」
そんなことで自らを縛るから生きにくさを感じると思うんだけど。
ジェンダーギャップは性別を狭い範囲に閉じこめる。
単一のモノサシは、それに当てはまらない人たちを弾き出す。
トランスジェンダーやXジェンダーの人たちはもちろん、
体と性自認が一致する人たちもそこに自分を当てはめようと
悩み、傷つき、自分を変えるべく苦労する。
性の問題だけじゃない。
国籍も、人種も、宗教も、年齢も、育ちも、生活環境も、
そして心身の障がいも。

モノサシって欲しい?
他国やかつての日本では
たぶん倫理がモノサシだったのだと思うし
例えば「殺すな」「盗むな」「騙すな」ぐらいの
ごく基本的な教えだったと思うけど
現代の日本においては儒教的な倫理観が無くなった結果
周囲の目が物差しになってしまったのではないかと思っている。
本家だ、分家だ、昔からのしきたりだとか
そんなものから現代社会は自由になったはずなのに、
隣組や集落自治の社会も昔に比べて薄まったはずなのに、
世間体や周囲の目も気にしなくなってきたはずなのに、
自らを縛る新しいモノサシを自ら持ってしまって
苦しむ現代人たちをかわいそうに思うんだ。
自分で自分を縛るだけなら、本人の問題で済むけれど、
自分なりのモノサシで
他人を差別したり非難したりすることは犯罪とも言える。

そろそろ自由にならないか?

コメント
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