風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

芸術は創造性

2018-09-01 | 文化


昨日の朝日新聞「天声人語」。
岡本太郎が日本の「わび・さび」に幻滅したとあるが
それは本質的な「わび・さび」思想に幻滅したのではなく
現代に残る「わび・さびのようなもの」に幻滅したのだろうと思う。
本来のそれは利休の思想に見るように
極めて創造的で、革新的で、旧来の文化価値の破壊を内包するものだから
「こうあるべき」とは真逆なものであると言えるから。

例えば、中国大陸や朝鮮半島からのいわゆる「唐物」を尊んでいた
それまでの茶人の文化的価値観を根底から覆し
新しいものを自ら作らせる「今様」を用いたこと。
それどころか周囲に生えている竹を切ってきて花入として使うなど
利休の審美眼の斬新さは当時の人たちを驚かせただろう。
茶室の設えも躙り口を設けたり、2畳という小間をを作ったり
それまでの茶の湯の価値観に革命的な挑戦を行ってきた。
彼の日の価値観のコンテにあったものこそ「わび・さび」だった。

しかし岡倉天心や柳宗悦の批判を見るまでもなく
近代以降、いや利休以降の茶の湯は単なる利休の猿真似にすぎない。
なんのことはない、利休以前の「こうあるべき」が
利休以降の「こうあるべき」に変わっただけだ。
形式にハマり、名物を愛でで揃え、自らその本質を知ろうとしない。
そりゃ岡本太郎じゃなくても幻滅するだろう。

縄文土器には、そんなことに縛られていない独創的な美がある。
自らが美しいと感じる創造性と実用性がある。
自分の価値観で、「名物」ではないものの美を発見する。
それこそが本当の芸術家じゃなかろうか。
私の心の師、柳宗悦氏も同じことを言っている。

そして現代においてそれは芸術に限ったことじゃなくなっている。
人生の進路も、社会での個人の有り様も、個性や多様性も
「こうあるべき」ばかりが幅を利かせている。
自分の価値観より、他者からの評価ばかり気にしている。
「こうあるべき」が高じて「ねばならない」ことばかりだ。
つまらない世の中になったものだ。
コメント
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