風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

学問のすすめ

2007-05-14 | 風屋日記
いま福沢諭吉の「学問のすすめ」現代語訳を読んでいる。
「何を今さら」と言うなかれ。
これが意外に面白く、いちいち尤もなことばかりだ。

初めて知ったけど、
印刷された「学問のすすめ」第1編はホントに薄く
文章の量も少ないんだね。
一般庶民に向けて生まれ故郷の長州で講演した内容を
そのまま印刷しただけだから表現も平易だ。
第2編から続くのはその後慶応義塾生などに話した内容や
あとからまた思いついた内容を続編として付け足したもの。
でも言っていることは終始一貫している。

まず諸外国と対等な立場になるためには
学問を修め、教養を身につけることが肝要とある。
それなしで腕力に訴えようと思っても無駄というわけだ。
要は「外交は頭を使え」ってことね。
ここいらはぜひ強面の外務大臣にも読んでもらいたい。

それから「どんな悪法でも社会の規律として守るべき」とある。
守った上で、その法が正しいかどうかを検討すべしってこと。
なぜなら自分にとって不利な法ばかり気になるだろうが、
逆に個人はその法に守られていることを普段は忘れているから。
法とは社会を形成するためのルールであり
「悪法」と挙げつらっているのはそのほんの一部だとある。

なるほど。
高野連が決めた学生野球憲章ばかりが槍玉に上がっているが
「特待生はダメ」という法がある以上は守らなかった方が悪い。
決まりを破っておいて「悪法だ」はないだろうってことね。
なぜそういう決まりができたのかを知らずに
その決まりが悪いかどうかを語ることはおかしいと。
表面的なものの見方でエキセントリックに反応するのではなく
その根底にある意味を考えるべきだということだろう。
高野連ばかり責めている人達は
あまりにものの考え方がデジタルになってしまっている。

ひとつの例として赤穂浪士の話が出ていたよ。
四十七士をもてはやす風潮があるけれど、あれは愚挙だと。
城内で刃傷沙汰になった責任は両成敗であるべきなのに、
浅野内匠守ばかりが切腹を申し付けられ
吉良上野介はおとがめなし・・・ということに対して
「仇討ち」という方法をとって全員切腹となったことを
明治の世になっても世論は同情しているが、
もし四十七士に切腹を申し付けなかったら
吉良の家来がまた「仇討ち」を行い暴力の連鎖が止まらない。
四十七士は本来浅野に対する幕府の「不公平な成敗」について
異義を唱えるべきであった・・・というのが福沢諭吉の理論。

その通りだなぁ。確かに尤もだ。
ミサイル実験の某国に対して「先制攻撃」は愚挙ということね。
暴力に暴力で応えることは連鎖を引き起こす。
国際法に照らして訴えればいいことだ。
言論や政策に対する暴力も同じことだね。
ネット右翼たちのレッテル貼りも、相手の話を聞かず決めつける、
言葉の暴力という意味では同じことなのかも知れない。

勉強になるなぁ。
やっぱりこの本は今こそ読まれるべきなのかも知れないな。
コメント (2)
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