吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

「道徳」の教科化

2015年02月06日 | Weblog
”読む”から”考える”道徳にするのだという。道徳にかぎらず、”考える”学習や教育を指向することには、大賛成。いっそ道徳にかぎらず、ただいまの教育全体を”考える”教育に改革してほしい。文部科学省が検討しているのは、小中学校での道徳の”教科化”だ。いまの「道徳」教育が、”読むこと”中心になっているという指摘に対する反省からだという。

いまの世の中、おそらくこれまでの教育が”そうさせたのでは”という事件が多い。このところ多発している”19歳”殺傷事件。戦後4~50年の新制教育の両親の子供がいまの青少年。文字通りいまの青年や19歳は、ここ10年余の「道徳」教育の申し子なのだ。この間の道徳教育の結末というより、行き着くところ、共通一次やセンター試験になる正誤回答教育の結果ではないのか。考えるを避け、記憶するや正誤回答するというこの間の教育が招いた結果ではないのか。

記憶や正答表やマニュアルどおりに回答する態度は、社会に出てからますます助長する。指示されたり、職務分掌やマニュアルにある項目のみを、善悪や人への思いやりなどを考えることもなく、行動する。その結果きた”19歳”事件のこの頃ではないのか。かかる事件や”いじめ”などをなくすようにするために「誰にも公平に接する態度」を教えたいのだという。

「誰にも公平に接する態度」をどのように教え、どう考えさせて、「いじめをなくす」ようにしたいのか。誠実や節度などをどのように教え、どのように考えさせるのか。”これが誠実、これが非誠実”や”これが節度、これが非節度”などを、どのように教えるのか。文章項目化したり、正誤回答化したりして”評価”したりすることにならないか。

教材を読むことになっているという只今の「道徳」が、何故そうなっているのかを、よくよく分析検討してほしい。教える教師の資質やキャリアなどとの関係も考えてほしい。教育の現場品質の限界も考えてほしい。すべてを”教育”のせいにしてはならないと思うのだが、期待する。
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