元教員の資料箱

昭和43年から35年間、教育公務員を務めました。その間に使用した教育資料です。御自由に御活用ください。

「東金事件 無罪主張へ」の意味

2012-05-07 00:00:00 | 事件
東京新聞朝刊(25面)に「東金事件 無罪主張へ 弁護団『自白誘導、証拠と矛盾』」という見出しの記事が載った。この事件は、千葉県東金市で、昨年9月、5歳の保育園・女児が殺害され、知的障害がある(とされている)22歳男性が殺人罪などで起訴されているというものである。記事によれば、〈副島洋明主任弁護人は「現場の状況や証拠が被告の自白と矛盾する。自白は、知的障害があって迎合しやすい被告から、誘導により引き出された」などと話している〉ということだが、私自身、昨年12月、この事件について以下のような見解を述べた。〈「気づいたら(幸満ちゃんが)玄関にいた。部屋にいたらぐったりした」という供述に加えて、容疑者が新たに「風呂の水に沈めた」という供述をしていることを続報しているが、容疑者には「軽い知的障害」があるとのこと、その供述内容は信ずるに値しない。大切なことは、「軽い知的障害」という、その障害の実態を的確に理解することである。「軽い」とは、何が軽いのか。排泄、食事、更衣、清潔などの基本的生活習慣、移動能力、作業能力などに生じる「支障」が「軽い」のであって、記憶、弁別、類推(関係把握)などの抽象的な認知能力、言語理解、言語表現などの思考能力に関する「支障」は「決して軽くない」。つまり、複雑な事象のことになると「言葉が通じない」「正確な言葉のやりとりができない」場面が増えることは間違いないのである。また、時間が経てば経つほど記憶はあいまいになり、周囲の環境や他人の言動に左右されやすくなるという特徴もあるだろう。それが容疑者(「軽度知的障害」)の実態である、と私は思う。したがって、彼の供述内容で事実を解明しようとればするほど、事実は「藪の中」という結果になりかねない。マスコミがその片棒を担がぬよう細心の注意が必要であり、まず「物証」を集めること、それ以外にこの事件の真相を解明する方法はない、ということを肝銘すべきである。(2008.12.16)〉したがって、今回、弁護団が無罪を主張することは「当然至極」のことと思われるが、同時に、それは、この事件が「でっち上げ」「証拠の捏造」「自白の強要」による《冤罪事件である》ことを主張することと同義であることを覚悟しなければならない。冤罪事件の場合、弁護団の使命は「被告の冤罪を晴らすこと」と同時に「真犯人を究明すること」が加わらないと、足利事件の「二の舞」を演じることになる。たとえ被告の無罪が証明されたとしても、「では真犯人は誰か」と改めて捜査を始めたとしても「時すでに遅し」という結果になりかねない。検察は、当然のことながら「被告を有罪にする」こと以外、念頭にあるまい。有罪か、無罪か、を争う「不毛なやりとり」を繰り返しているうちに、真犯人はまんまと「逃げおおせてチョン」という結末になりそうな予感がする。
 大切なことは、あくまでも「物証」、〈被害者の衣服が入ったレジ袋から、被告の指紋が検出された〉のは「事実か」、もし「事実」だとすれば、どのような経過の中で、被告の指紋がレジ袋に付着したか、を「争点」にして「真実」を明らかにしなければならない。間違っても、「被告の自白内容に信憑性があるか」などといった不毛な論争が展開されないよう、祈りたい。(2009.9.14)

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