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オリンピックあれこれ(7)

◎最終走者の誤解
 毎日新聞の冨重圭以子・専門編集委員は、私が注目するライターの一人です。長くプロ野球を取材してきた方ですが、毎週木曜夕刊のスポーツコラムは読ませます。だが、8月2日付のコラムにはちょっと引っ掛かりました(すみません)。
 1964年東京オリンピックの聖火リレーの最終走者に選ばれた無名の青年は「1945年8月6日、つまり広島に原爆が落とされた日に生まれた青年だった」まではOKですが、続いて「対米関係最重視のいまだったら、政府がノーと言ったかもしれない人選だ」。さらに「敗戦からの復興をアピールしたい、という当時の空気をよく表している」とあります。これには大いに疑義を唱えざるをえません。
 私のように太平洋戦争を経験した人間には、戦後日本の外交はすべてアメリカの顔色をうかがいながらやってきた、アメリカの思うがままの対日政策にあやつられてきた、アメリカ人は日本をまるで属国のように思っているなどと、ずっと思ってきました。これも戦争に負けたのだから仕方ないことか、とも。
 ですから、冨重さんのいう「対米関係最重視のいまだったら」というのは、私に言わせれば大きな判断ミスで、1964年東京オリンピック当時も対米の外交的最重要さにおいて同じか、それ以上でした。むしろ戦争が終わって19年しか経っていない当時の方が、アメリカの締め付けがきびしく、一見対等のようですが日本政府はずっと忠犬ハチ公状態でした。
 「いまだったら」というのは、いまの視点で想像する狭い見方です。繰り返しますが、アメリカと日本は同盟国だというのは名ばかりで、日本はアメリカの世界戦略に組み込まれて、政府は常に受け身の立場です。それが、戦後一貫した日米関係でしょう。1960年ころのアメリカなら、ほとんど一方的にオスプレーも導入し、しゃにむに沖縄の基地を広げたでしょう。たしか東京オリンピック当時は、原潜の日本寄港問題があり、政府はオタオタしていた。いまだからオスプレー導入に文句がつけられるようになった、と考えます。
 ことオリンピックについて、アメリカはかつてマッカーサーが選手団長を務めたり、ワシントンハイツを選手村に提供してくれるなど歴史的にも寛大でした。だが、最終走者は、結果として原爆がからむ問題になってしまった。「困ったことになった」という人が日本政府内にいたでしょうが、むしろ私は当時のスポーツ関係者の、「政治に文句を言われたくない」という気概を感じます。
 
◎竹田恒徳さんの決断
 東京オリンピック開会式のちょうど2カ月前の8月10日、朝日新聞は朝刊で「最終走者に十九歳の坂井義則君、原爆の日、広島生まれの早大生」と報じました。完全なスクープでした。内情は、朝日が坂井君を広島郊外の自宅から誘拐、監禁するというあくどい手口で、報道界で物議をかもしたスクープでした。私もこのスクープに、大いにかかわりました。(くわしくは拙著「スポーツ人間ちょっといい話・第32話」にあります)
 オリンピック組織委員会は、選考を「三人委員会」に任せていました。日本陸連の青木半治理事長、JOCの竹田恒徳委員長、JOC久富達夫相談役の3人でした。カギを握るのは現場を預かる陸連の青木さんでした。戦後生まれの走る姿の美しい青年を、陸上競技の選手の中から探し、坂井君に白矢を立てていました。それを朝日記者は夜打ち朝駆けでマークし、ひそかに嗅ぎ付けていました。
 この段階では、坂井君が広島出身で原爆の日に生まれたことなど関係ありませんでした。将来性のある若い選手だから候補に入っただけです。つまり意図的に広島出身を選んだわけでもなく、ましてや原爆の日に生まれたのは、まったくの偶然でした。他社からは広島出身の織田幹雄さんが噛んでいたのだろうと随分疑われたものです。それも間違いです。
 私は、坂井君が原爆の日生まれを知り、驚くと同時にその偶然さに瞬間的に「おもしろい人選だ」と思いました。だが、私には大きな仕事が待っていました。まず「三人委」の委員長格の竹田さんを、どう納得させるか大問題でした。私は、社会部のデスクに「このスクープがうまく行くかどうかはキミの両肩にかかっている」と、奇妙な励まされ方をして、朝早く品川の竹田さんのお宅にうかがいました。
 元皇族の竹田さんは、私の経過説明を聞かれたのち、きっぱりと「いいでしょう。青木君が推薦しているのなら間違いないでしょう」とおっしゃった。こうして事実上、坂井君が決まりました。私の記者生活で、あの時ほどホッとしたことはありません。
 元皇族の竹田さんの「イエス」ですから、政府も「ノー」と言えなかったという見方もあります。だが、アメリカ側は不愉快だったとしても、基本的な立て前として「スポーツのことだから」と、見過ごされたのでしょう。さらにうがった見方をすれば、日本政府には原爆っ子起用にアメリカ政府がどう反応するか知りたい気持ちもあったでしょう。また、もしアメリカ政府が反対すれば世界中の笑い者になったであろうことも容易に想像されます。

◎歴史解釈のむつかしさ
 私は実にしつこく冨重さんの文章を責めているようですが(その点はおわびします)、あのコラムで瞬間的に感じたのは「歴史の評価のむつかしさ」です。
 1964年東京オリンピック当時の関係者は、どんどん亡くなっていきます。世代が変わり、新しい探求者がかっての歴史を文献などで解釈するとき、また、起こった現象だけをそのまま受け入れるとき、歴史の解釈は相当変わったものになる可能性がある、ということです。
 「歴史の事実の解釈は、その事実が終わった瞬間からフィクションの世界に入る」と割り切る考えもありますが、これは時によって恐ろしいことになります。新聞や雑誌が書く文章(あえてフィクションとは言いません)が、事実と誤解され、さらに歴史になってしまうからです。後世、例えば教科書などに「1960年代に入り安保騒動など反米の動きが高まり、東京オリンピックでは最終走者に原爆っ子が選ばれたのも一つの例である」などと書かれたら、これこそ事実誤認です。
 繰り返しますが、坂井君は「原爆っ子」だったから選ばれたのではなく、選んで見たら「たまたま8月6日に広島で生まれた」というだけです。富重さんは書いておられるように「復興をアピールしたい」からでもありません。
 1959年に招致が決定した当時は、むしろ「東京オリンピックは日本国民に歓迎されたものではなかった」というのが、当時取材していた私の印象です。税金を使うな、施設は無駄ではないか、といった反対論が随分ありました。「復興をアピールしたい」などと盛り上がって来た(便乗が始まった)のは、招致の立役者で組織委の事務総長だった田畑政治さんが、政府の圧力で罷免された1962年あたりからです。
 きれいごとでは片付けられない東京オリンピックのことを、私はいつか書きたいと思っているのですが、もう年ですねぇ。
(以下次号)

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