
須賀敦子『ザッテレの河岸で』を再読する。
『ザッテレの河岸で』所収の書籍を3冊も持っている私。
1:『ヴェネツィア案内』とんぼの本、新潮社、1994年5月刊
2:『地図のない道』新潮文庫、1999年10月刊
3:『須賀敦子全集第3巻』河出文庫、2007年11月刊
特段のお気に入りだから、というわけではない。
他の話目当てで、たまたま重なっただけ。
本作品は、ヴェネツィアの娼婦(高級娼婦)を巡る紀行文。
1988年。
ヴェネツィア生まれでヴェネツィア育ち、ヴェネツィア大学の日本研究者である知人に案内され、観光客があまり行かないヴェネツィアを巡っていたところ、細い水路の名前が目に止まる。
「リオ デリ インクラビリ」
「なおる見込みのない人たちの水路」
知人に聞くと、無頓着に答える。
「ああ、むかしここにそういう名前の病院があったのよ。それだけ。」
1990年。
3月の終わりに近い頃の日曜日。
午後いちばんのミラノ行き特急まで、それほどゆっくりはできないけれど、すぐ駅に行ってしまうのはもったいないというぐらいの時間があって、例の知人とともに、展覧会を見ることにする。
めずらしい題材をとりあげたということで、新聞などで評判になっていた。
「ヴェネツィアのコルティジャーネ」
(Le cortigiane di Venezia dal Trecento al Settecento)
1990年2月2日〜4月16日
Casinò Municipale, Ca’ Vendramin Calergi
コルティジャーネをモデルとしたヴェネツィア派の絵画作品が並ぶ。ティントレット、パルマ・イル・ヴェッキオなどによる、あまりにも豊満な女性たち。
もうすこしで出口というあたりの展示室から様相が変わる。
コルティジャーネが用いた靴、あるいはその靴に取り付けた「かかと」。長さが20〜30センチほどもある、人骨を想起させる不吉な形の「かかと」。
最後の展示室。彼女たちが病を得て収容された施設の見取図、その設立に際しての法律や寄付にまつわる文書類、さらには医師が治療に用いた外科器具までが展示されている。
「もういい、これくらいで」。
じっくりと終りまで見ないで、会場をあとにする。
しかし、この展覧会は「あとを引いた」。
1993年。
11月も終わりに近い頃、6日間の滞在。
コッレル市立博物館にて、カルパッチョの作品《コルティジャーネ》を見る。
ふたりの婦人は、実はヴェネツィアの旧家のごく普通の婦人たちである、と知る。
あの展覧会のカタログを求め、何軒か書店を巡る。
「もう3年もまえのことですから」
例の知人に助けを求め、教えてもらった電話番号の主が、つぎの電話番号を教えてくれ、そのまたつぎの、と何度かつづいたのち。
街の中心にある美術書専門店で、見おぼえのあるカタログを高い棚から取り出してくれる。
以上が曖昧ながら記憶に残っていて、確認したく再読したもの。
カルパッチョの作品《コルティジャーネ》は、《二人の貴婦人》という題名で、2011年の江戸東京博物館「ヴェネツィア展」で観ることができた。
今思えば、2024年の福岡市美術館「永遠の都ローマ展」でのカラヴァッジョ《洗礼者聖ヨハネ》と同等、あるいはそれを上回る「奇跡の来日」であった。
「ヴェネツィアのコルティジャーネ」展。
どんな展示内容であったのか気になる。
須賀氏の記述からは、美術作品の展示がメインであったようである。
コルティジャーネをテーマとしたヴェネツィア派の絵画展、というところであろうか。
文学や音楽なども含め、コルティジャーネのヴェネツィア文化への貢献も対象としていたかもしれない。
ただ、最後の方には、歴史史料の展示によって、負の部分、というか、コルティジャーネとは全く別のカテゴリーと言わざるを得ないらしい「その他大勢の娼婦たち」を対象としたようである。
須賀氏が苦労して入手した展覧会カタログ。
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