もう70年前の話だが、当時の歴史を知る人も少なくなってきたので若い人たちに事実を知ってほしく
最近友達に送ったメールをコピー投稿します。
父親が大林組に勤めていたので満州からの引き揚げ前のしばらくは安東(丹東)の社宅のようなところで待機していた。
今でも記憶が残っており家の周りのレイアウトは書ける。
「私の履歴書」にあるように子供を除く青年男子(定かでないが多分45歳以下)は全員召集されてシベリア送りになったそうです。
私の父親は45歳を超えていたが召集をかけられて、母親が日本の担当局に談判して召集を免れたという話を聞いた。
当時日本人の子供達は生活を助けるために首から下げた箱にお菓子を入れて売りに歩いていた。
何か面白そうな気がして両親にお菓子を売りに行きたいとねだった。
両親はそこまでする必要はないと反対したが、姉と私の強い希望に根負けして一日で懲りるだろうと商売道具を用意してくれた。
案の定声を出すのも恥ずかしく売れるはずがなかった。
当時親しくしていた満人が見かねたのか一つ買ってくれただけで後は全て自分たちで食べてしまったという記憶がある。
社宅の周りは鉄条網で柵がしてあったが入ろうと思えばいつでも入れるような柵であった。
終戦後にソ連軍の戦車が列をなして侵入してくるのを柵の陰から眺めた記憶がある。
ある夜、ソ連兵が家のドアを開けて侵入してきた。
私は幼く理解できなくてポカンとしていたそうだが、姉が異変に気付き大声で泣いたそうだ。
恐らく乱暴目的で侵入してきたのであろうが若い女がいないと気付いたのか何もせず出て行ったそうだ。
其の後同じような危険があるので押し入れの壁をぶち抜いて隣の家に逃げられるようにした。
隣の菅原さん夫婦は子供がなく私をたいそう可愛がってくれたそうだ。
引き上げ後は広島に住まわれており、私が18歳ごろ一度お会いしたが大きくなった私を見て喜んでくれた。
真偽のほどは不明だが、菅原さんたちは潜水艦で引き揚げたと聞いたことがある。
まさかと思うが当時動く船は総動員して引き揚げ作業に当たったそうで有り得る話である。
to be continued







