城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

母を送る 23.8.29

2023-08-29 14:38:57 | 地域のこと他
 先週の23日朝、母親が入居していた特養から「具合が悪くなったので来てください」と連絡があった。その時畑にいたおじさんは、その日午後におばあちゃんに面会する予定であったおじさんの娘とともに施設に駆けつけた。主治医が来ており、酸素吸入と点滴の措置が行われていた。先生の説明では前日から食事がとれていなく、また血圧が測定できない状況にあるとのことであった。荒い息をしているうえに、ときどき苦しいのか胸をかきむしるような仕草をしていた。目はつむったままで時々目を開けたがすぐに閉じた。苦しい中でも時々歌を歌っているように感じる時もあった。両親共稼ぎであったこともあり、おじさんの娘はおばあちゃん子でとてもおばあちゃんを大事にしていた。娘は心配そうに枕元で「おばあちゃん」と声を掛け続けた。

 時間が11時半頃となり、施設側から退去を求められた(この時はいまだ緊急の状況ではないと判断したのだろうかと思った)。昼からはおじさんの妹が見舞った。妹から聞いた話では同じような状況だった。そして翌朝4時前に枕元の携帯が鳴った。施設の職員からで、部屋を見回った際に息をしていないことに気づいたとのことだった。とっさに事態を飲み込めずに「亡くなったのですか」と聞いたらそうだという返事だった(この時点では医者は来ておらず、死亡の判定はできないということか)。すぐに二人の妹に電話をし、施設に駆けつけた。入居部屋に入ったところ、職員が主治医からの電話だとスマホをおじさんに渡した。主治医は「3時59分になくなりました」とだけ告げた(職員から電話を受けた時刻と遅れがあった。もちろんこのことをとやかく言うつもりはない。施設に看取りまでお願いした以上おまかせするしかない。)。施設側による清拭の後、6時前にJA葬祭センターの車で自宅に向かった。

 母は大正12年9月の生まれで関東大震災のあとこの世に生を受けた。10歳前後で母親と死別し、その後は弟3人の母親代わり、さらには働き手として苦労を重ねた。第二次大戦後にビルマから復員した父親と結婚し、最初の子どもは生後すぐに亡くなり、その後おじさんが産まれた。4年後双生児である妹が誕生した。我家はいわゆる7反ばかりの兼業農家で、田植えや機械を使う収穫作業を除くと水回り、草取りなど日常の仕事は全て母親の仕事であった。おじさんにとって忘れられないのは、173cmの親父と150cmの母親が発動機などの機械を天秤棒で担いでいる光景だ。細い畦を親父に叱られながらお袋は担いだ(おじさんが中学生になった頃にはこの役は私に回った)さらに和服の仕立てなどの副業も行い、家計を支えた(葬儀の時にこの話を司会者がした。とても良い声で思わず涙ぐんでしまった。)。

 関東大震災 大正12年9月1日 母はあと一月で100歳の誕生日を迎えるはずであった

 平成8年2月親父は80歳で亡くなった。もともと体が丈夫でなく、処置が遅れた盲腸炎やその後の腸捻転などはますます体力を奪った。疲れた体でお百姓の仕事をするので、不機嫌になり、作業後は寝てしまうことも多かった。最後は自宅で寝たきりとなり、その介護は母親が行った。

 親父の葬儀は自宅で行った(この時点では揖斐には葬儀会場はもちろんのこと設備の整った火葬場すらなかった。作るという計画はあったのだが、迷惑施設ということもあって場所が決まらなかった)。祭壇は区の所有するもの、棺桶も区が持っていたものだった。葬儀会社は使わずに、全ての仕事は当家と班の者(基本的に葬儀があると各家は夫婦二日間休みをとり準備作業に加わった)が行った。通夜、葬儀とも親戚関係(かなり薄い親戚にもお触れを出した)、地域関係、職場関係の大勢の会葬者が参列した。この葬儀の時、おじさんの心配事は二つあった。一つは火葬場の問題で、当時揖斐川町には財産区の所有する古い火葬場があるのみで、これを使用するかどうか。結局、班でお願いするのは大変だと思い、大垣市赤坂の火葬場を使うことに決めた。それでも霊柩車(町所有のライトバン)の運転は班の人が務めた。もう一つは、焼香の順序、これは後でもめることが大変多い事項だった。これを決めるために叔父さんなどとかなり相談した。葬儀後は、香典返しなど膨大な仕事が待っていた。今から考えると故人との別れを家族とともに静かに過ごすことは全く出来なかった。
 ※火葬場のことについて言及したブログ 「コモンズの悲劇」20.8.2

 母親の葬儀は前から家族葬で行うことを決めていた。参列者は子ども3人と孫だけとした。それでも母方の兄弟の三家には訃報と家族葬で行う旨を伝えた。三家ともその日のうちに自宅に故人を訪ねていただいた。通夜の当日、近在の父方の親族(おじさんと従兄弟)には伝え、ここもその日自宅を訪れた。また、所属の班長にお知らせし、区長に伝えてもらうようお願いした。最近、自宅から葬儀場に出発する時に地区の方が見送りするケースが増えているようであるが、これも辞退した。

 葬儀場に来てからも、通夜、葬儀、その後の収骨を除くとほとんどすることがない。余った時間は親族同士で母親や父親の思い出話、あるいは親族の近況を語り合うこととなった。一人が話をすると別の者がそういえばこんなこともあったと延々と続いていく。これこそが故人を偲ぶことであり、葬儀において求められることであると思う。もちろん、葬儀の場でなくてもこうしたことは可能であるのだが、兄弟ですら集まる機会はほとんどないのである。今や家族葬は葬儀の主流となっており、過半数を占めているようだ。

 収骨後、自宅に帰り、初七日の法要を行った。この後、七日毎の法要が七七忌まで続く。この間は忌中とされ、神社へのお参りはできない。9月10日に予定されている地区の神社の秋季祭(我が班が当番班なので準備が9日にある)にも参加はできない。毎日登る城台山、登り口の三輪神社を初めとして三つの神社があるが、鳥居から中には入らないようにして登っている。

 23日に一旦帰った孫(26日の葬儀に出席)が27日に登った郷土資料館~城台山の途中で見つけたコクワガタ
 自宅まで持ってきたが、解き放った(この孫、おおばあちゃんのことを思い出しては泣く、優しい心の持ち主だった)

 父親と母親を送った今、おじさんも子どもに送ってもらう日がいつか来る。送ってくれる者がいることの幸せを感じながら、日々を過ごしていきたい。
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