城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

世間というアポリア(難問) 21.7.5

2021-07-05 17:13:49 | 面白い本はないか
 「世間」という言葉をスマホで検索すると、良い意味では「世間が広い」、悪い意味では「世間知らず」「世間は許してくれない」、やや悪い意味で「世間体」が見つかる。では「世間」とは一体何物なのかというになるときちんと説明することはおそらく極めて難しいであろう。ウィキペディアによると、もともとはインドの宗教用語で「移り変わり、破壊を免れない迷いの世界」であり、日本では「この世、世の中、社会」のことを表す用語として使われているとある。おじさんの子ども時代に、母親が何か悪いことをすると何かと「世間体」が悪いとか言っていたような記憶がある。今から考えると、「世間」という訳の分からないものを持ち出して、それをある意味規範として使っていたとも思われる。本来規範ということであれば、社会のルール、礼儀作法、法といったはっきりしたものであるべきであろう。そうでなければ、「世間」はどんどん一人歩きし、同調圧力ともなり、わたしたちの社会を息苦しくする大きな要因ともなる。

 「世間」と概念概念について、世間学会を作った西洋史学の阿部謹也の定義が有名である。阿部謹也「学問と「世間」」(岩波新書)によると、私たちは常に「世間」の監視の下で生きている。会社にあっても、官庁にあっても、我が国の人間集団にはどこでも「世間」が形成されており、自分がどのような「世間」に属しているのかを知らなければ、我が国で大人としては暮らすことできないと述べている。さらに続けて、巷間には、「世間」などもう古い、過去の遺物だと考える人がいる。(中略)しかし、「世間」のために苦しにんでいる人は極めて多いと述べ、左半身が不自由な妻が病弱な夫と生活保護と障害基礎年金で暮らしている夫婦の例をあげている。この夫婦に対し、近所の人たちからは「おらたちの税金で食ってやがる」という陰口をたたかれ、妻はそれを常に苦にして、妻が夫に別れ話を持ちだしたために夫が妻を殺してしまったという新聞記事をあげている(最近では生活保護受給者に対する異常なバッシング。コロナ感染者に対する批判などなどがある。)そして、オウム事件の関係者を排除しようとするときに「世間」が大きな役割を果たしていると(日本ではその関係者には「人権」はないと思っているのか。犯罪の加害者の家族に対してもそのバッシングはすさまじい)。

 次に2冊目の本を紹介する。実は、この本を昨日読んだところから、今日のブログを書こうと思った。鴻上尚史・佐藤直樹「同調圧力ー日本社会はなぜ息苦しいのか」(講談社現代新書)である。鴻上氏はNHKBS「クール・ジャパン!?」に出演している。佐藤氏は専門が世間学、刑事法学とある。先ほどの阿部氏の学界に属しており、「世間」についての著作も多い。この本では、『同調圧力」とは少数意見を持つ人、あるいは異論を唱える人に対し、暗黙のうちに周囲の人と同じように行動するよう強制することと定義する。この圧力は非常時にかつての大震災時そして現在のコロナ感染下において猛威を振るう。強制力のない自粛や要請であっても、それを過剰に忖度し、自主規制する(それを「民度」が高いと言う人まで出てくる)。この圧力は人々の行動を抑制するだけでなく、結果として差別や異質な者の排除にも発展していくのである。


 「社会」と「世間」の比較
 日本においては、「世間」と「社会」は、前者がホンネで後者がタテマエという二重構造となっている。世間を構成する四つのルールとして、①お返しのルール(頻繁な贈り物の習慣、もらったらお返しをする「香典返し」、ラインの既読もお返しをある意味強制するーそう、おじさんもこの既読を随分気にする)、②身分制のルール(先輩後輩、たかだか1年違いで奴隷のような扱いを受ける、序列が上の者には従わなくてはならない。序列の確認のため名刺が交換される。序列がわからないと落ち着かない)、③みんな同じ時間を生きている=人間平等主義(出る杭は打たれる、みんな同質と考えるから、異質な者が排除される)、④呪術姓のルール(俗信、迷信の類いが山のようにある)。人間平等主義、一見良さそうに思えるのだが、実はそうでない。人間には能力や才能の差があるのに、それを認めない。たまたま運が悪かっただけと考える(大谷選手を見ていると差があるよね。しかし、これくらい差があれば誰も文句は言わないが、同期入社で出世したりするとそれを認めようとしない(もちろん、誰もが認める才能があっても馬鹿な上司がいると損をすることはあるが))。これを認めることができないために、「ねたみそねみひがみやっかみ」が生まれる。旧軍のように卒業時の成績により、その後の昇進が決まってしまう。人間を能力によって判断することがとても怖ろしいことになる。(白状するとこの年になっても嫉妬心はなかなかなくならない。もちろんこれが自己奮発の力になればまだ救いようがあると考えるが・・・)

 さらに、世間は個人が属する集団ごと無数にあり、それぞれが島宇宙を形成している。そして、それぞれの世間がウチとソトを形成している。前に「情けは人のためならず(21.2.9)」で触れたが、日本人はウチには非常に気を遣うのに、ソトには気を遣わないと言われている。エレベーターの中で見知らぬ人と同乗しても挨拶をすることはほとんどない。山を登ったりしているときは、ほとんどの人が挨拶したり、おしゃべりしたりする。ところが、街で会っても、ほとんど挨拶をしない。前者は同じ登山仲間=同じ世間に属していると思うせいなのか。犬好きな人同士とか同じ趣味を持っているとわかるととたんに饒舌になってしまう。もちろん、「世間」のルールが行き渡っているために、良いこともある。すなわち、非常時(例えば大震災時)法のルールが崩れても、容易に秩序は乱れない。これが海外からの称賛となっている。今回のコロナでも容易に自粛が実行される。しかし、このことには大きな問題があることを我々は自覚しなければならない。また、日本の謝罪文化にも「世間」は関連している。不祥事に対し、すぐにか随分たってからか、大勢が並んで一様に謝る光景を何度も見る。一体誰に対して謝っているのだろうか。それは「世間」をお騒がせしたことに対する謝りであるため、随分軽く感じられてしまう。

 最後にもう一冊紹介する。森達也「FAKEな平成史」で、今日読み始めたばかりで、残り60ページ。ここには彼が制作してきたドキュメンタリー(ここで取り上げてられているのは、「放送禁止歌」、「ミゼットプロレス伝説」、幻となった「天皇ドキュメンタリー」、オウムを描いた「A」「A2」、未完の「北朝鮮ドキュメンタリー」。別の本で読んだが、ドキュメンタリーは全て事実に沿っているものではない。どういう切り口、映像の使い方などによって、制作者が作り出すものであることを認識しておいた方が良い)をめぐる平成史である。ここにはこの国の特殊性が描写されている。昭和天皇崩御の際のメディアの自粛。「不謹慎」という英語に訳せない言葉。不謹慎とは何か。何に抵触しているのか。法ではない、ルールとも違う、道徳や倫理でもない、結局は空気なのだ。みんなで同じことをやっているのに、なぜおまえだけがやらないのか。あるいは、みんなで我慢してやらないのに、なぜおまえだけがやるのか。動きに同調しない異物の摘発。ピーター・バラカンによる日本の歌手への酷評も面白い(おじさんも日本の歌手の下手さは昔から感じていた)

 私たちの社会には、ホンネとして「世間」が依然として大きく存在している。これが、多くの人々、特に弱者やマイノリティに属する人々にとって、社会を生きがたくしている。この「世間」はdie hard(容易に死なない)であることは間違いないが、これを変えることができるのもわれわれなのだ。


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