城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

大学同窓会 24.9.10

2024-09-10 19:21:43 | 地域のこと他
 9月5日名古屋駅前で大学の同窓会が開かれた。

 大学入学後、最初の2年間の教養部にクラス分けがされ、わたしはL-32というクラスになった。

 このクラスには35名が所属し、この同窓会には15名が参加した。

 既に5名が物故者となっているので、ちょうど半数が参加できたことになる。


 入学したのは1968年(昭和43年)、メキシコオリンピックが開かれた年である。また、東大紛争、プラハの春、キング牧師暗殺、パリ五月革命、三億円事件などが起こり、流行った歌としては、天使の誘惑(黛ジュン)、君だけに愛を(ザ・タイガース)、恋の季節(ピンキラ)などがあり、口ずさんだものだ。この中で学生生活に大いなる影響があったのは、東大紛争で我が大学も何ヶ月か遅れて封鎖となった。

 L-32のクラスの仲間の大部分が学業よりも、レジャーに大半の時間を費やした。特に多いのは麻雀で、各自の下宿、自宅通学者の家で毎夜のように繰り広げられた。試験が近づくと皆は一夜漬とばかりにこのときだけお勉強に励んだ。わたしにとって、後の趣味となる山登りも2歳上のOさんが誘ってくれたからで、途中の中断期を除くと、いまだに山に登り続けている。

 
 
 これが当日の同窓会の模様で左の立っているのはおじさんである。順番に近況報告とやらを行った。
 一人当たり10分という幹事の命令であったが、しゃべりすぎたせいかストップがかかった。

 この中で現在闘病中あるいは障がいが残っている同級生が結構いる。

 一人は膵臓ガン・ステージ4、同窓会のあと、転移した肝臓のガンに対して抗がん剤を投与するそうで、その副作用が半端でない(彼の息子は止めたらといっている)のだそうだ。それでも彼は相変わらず同級生で作っているグループラインに毎日内容のある文と上手な写真を投稿し続けている。 テニスや陶芸、野菜づくりなどもしており、とてもガン患者とは思えない。

 相続の話もあった。独身の姉がなくなり(亡くなるまで介護してきた)、姉の自宅と経営するアパートが残った。彼は、奥さん共々養子縁組を行っているので、残された財産を相続するための手続きを自ら行った。その手続きが大変なものであることは、この同窓会に出席していた公認会計士も認めるくらい大変なのである。他にも相続の話があったが、共通していたのは司法書士など専門家に誰も頼んでいないということだった。

 学生時代からオケに参加する同級生は、クラリネットが欲しくなったそうだ。良いものは100万円、ちょうど演奏家が古くなったものを50万円で譲るという話があった。結局、彼が買ったのは2万円ばかりのもので、プラスチック製だった。実際吹いてみると、それなりの音がしたそうで、自分で楽しむだけの現状では、これで十分と納得した。

 父親が105歳となり、現在は施設に入っているそうだが、その父親から頻繁にいろいろ持ってくるように連絡があるので、結構大変ということだった。彼の望みは、もう一度世界一周の旅をしてみたいというものだった。

 卒業から52年、今から思えばあっという間の出来事だった。
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竹屋谷からブンゲンへ 24.9.8

2024-09-08 19:05:06 | 山登り
 昨年の8月9日「竹屋谷で沢遊び」の続編で、今回は竹屋谷からブンゲンを経由し、北谷を下降する周回コースを昨日9月7日(土)登ってきた。

 体力の落ちたおじさんにはかなりきつい山行となり、リーダーのEさんを始め、大いなる迷惑をかけた(今日もあちこち痛む)。

 わたしには、簡単な沢登り(竹屋谷は初級)でも普通の山行の1.5倍から2倍くらい体力を必要すると感じられ、今回念願のコースをなんとか登れたことは非常に嬉しい。

 
  
 
  8:16竹屋谷歩道入口
 
  8:25 最初の滝
 
  8:28
 
  8:42 観音滝
 
  8:44 観音滝を登る
 
  8:56
 
  9:37 大樋 ここは手と足を岩に押しつけるようにして登って行く
 
  9:59 大樋 ザイルを使う
 
 10:01 大樋を登ると滑
 
 10:13 滑滝
 
 10:32 狭いところに難渋する
 
 11:07 源流近し
 沢を離れても山頂までは遠かった
 
 12:24 ブンゲンに到着 長かった!!
 
 15:05 滝 もちろん高巻き
 北谷の登降が難しいところには固定ロープが設置されている、また高巻きも踏み跡、赤テープがある
 
 16:17 大平八滝入口から見る伊吹山

 時間はかなりかかったが、無事に終わることができた。駐車地で持ってきたうらなりのミニスイカを4人で食べた。


 コースタイム 大滝八滝入口8:05→大樋入口9:37→ブンゲン12:24~12:45→大平八滝16:17






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ノリさんのガーデンノート⑪バラ夏剪定の準備 24.9.4

2024-09-04 19:15:51 | バラ、クレマチス等
 幸いなことに当地では迷走台風による大きな被害はなかったが、隣の池田町では杭瀬川の氾濫により被害が出た。こうした中小河川の氾濫の危険性は、ゲリラ豪雨の頻発により増えている。

 台風が去ったあと、昼間は相変わらず暑いが、朝晩は少し過ごしやすくなった。(8月はこの時間(20時)でも30度以上あったが、今や27度となっている)


 クレマチスのシルホサ さびた鉄線が絡まっているかのような哀れな姿だったが、新しい緑の芽が一杯でてきた
 夏が終わり、秋が来たことを植物も感じるのか
 このあとすぐに花をつけ、春先まで楽しむことができる


 この時期、迷うのはいつ秋のバラのための夏剪定+施肥を行うかである。

 本には8月下旬~9月上旬と書いてあるが、早めにこれを行うと9月、10月の最近の気温の高さにより、10月までには咲いてしまうと思われる。さらにそのあと12月にもう一度咲くものもある。

 そのため、最近は9月の5日頃に行っているが、今年は8日日曜日頃に剪定と施肥を行う予定である。

 随分背が伸びてきている 手前のギーサヴォアは2.5mくらいある これをどこまで剪定するのか

 今年は割と葉がしっかり残っている

 剪定をしないと9月中に小さな花が咲く


 8月26日外は雨が降っている
 2階から望遠で撮った ペッシュボンボン
 半つる性なので強い剪定は行わない(もちろん、つるバラも行わない)

 花が一杯付いている 今日撮影

 背が高い!

 台風の影響で随分雨が降ったので、雑草も一挙に多くなった。雑草を抜き、バラの株の周りに肥料を投入できるように溝を掘った。

 バラの下で花が咲いている。

 サフランモドキ 
 
 
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歴史小説をより楽しむために 24.8.26

2024-08-25 19:15:27 | 面白い本はないか
 水曜日頃に台風10号がやってきそうである

 この台風に備えて、昨日ナス、ピーマン、甘トウガラシを支柱にしっかりと結わえ、トマトの雨除けビニールを撤去した。さらに、その夕方ここのところの雨でにわかにのびた草を草刈り機で刈った。
 
 今朝は夏剪定前で枝が伸びたバラに支柱を立ててむすんだ。


 今日は、浅田次郎の「流人道中記」と戸森麻衣子「仕事と江戸時代」を取り上げる。

 歴史小説あるいは時代小説では江戸時代が舞台となることが多い。だから、小説家は当然のことながら江戸時代のことを相当勉強する必要がある。史実を学んだうえで、想像力を最大限働かせて、小説を書くことになる。

 読み手である我々は、史実について勉強しなくても(知らなくても)楽しめるようにはなっているが、少し史実も学んでおくと、今以上に楽しむことができると思うが、いかがか。


 まずは、「流人道中記」のあらすじから。中心人物は、不義密通(普通なら死罪となる)で切腹を迫られたが、それを拒んだ結果、蝦夷の地の領主松前伊豆守に永年お預けとなった旗本の青山玄蕃。そしてかれを蝦夷の地まで送り届ける役に任命された見習い与力の石川乙次郎。かれは青山が流人とされた訳を詳しくは知らない。奥州街道をたどる旅の途中様々なこと起こり、世間に通じた青山はこれらの事件をこれ以上の解決方法はないのではないかと思われるような見事な方法で解決していく。仙台藩では伊達のお殿様が玄蕃が来ることを知って大歓待する。石川は青山の流人らしからぬ言葉や行動に反抗したりするのだが、次第に認めることになっていく。

 終盤になって、青山玄蕃の身分とその不義密通とされた事件のあらましが青山自らの口から明らかになってくる。青山の上司(石数では下)が出世さらには邪魔となる青山を陥れたが、青山は上役にその詳細を語ろうとしないし、また弁明もしない。評定の結果、下った裁決、自裁すなわち切腹を「痛いからやだ」と言って拒んだ。青山が世間を良く知っているのは、その出自からであった。青山家に仕える女中を母とし、母共々捨てられた。残飯をもらって、日々の糧とするような暮らしの中で武士という世界以外のことを知ることになる。ところが青山家の跡継ぎがいなくなって、急遽旗本という殿様になったのである。彼が切腹を拒むのは、言われなき罪と「武士が命を懸くるは戦場ばかりぞ」という信念があるからである。青山の言われなき罪に対し、最もするどく反応し、仇討ちの準備をさせたのが奥方であった。まさに忠臣蔵のような光景だ(このシーンがこの小説の中で最も感激する箇所である)。奥方をぎゅっと抱きしめ、感謝するとともに裁決を受け入れることを彼女にささやく。こうして青山家3250石は闕所となった。

 一方、押送人の石川さん、そのうちに流人から乙さんと呼ばれた見習い与力。彼の実家は御家人で、彼の兄が父親から家督を譲られて同心を務める。彼は次男坊であり、同心という職には就けない。何らかの職に就くには、他家の婿になるか養子縁組しかない。彼は、武芸と学問に励み、兄が急になくなった石川家の婿に選ばれる。妻は15歳、半年経つがあまりに幼く、抱くことさえできないという事情がある。義父は与力について、何も教えてくれない。
 
 以上があらすじ。

 ここからは、「仕事と江戸時代」を紹介するが、この本では江戸時代の武士、町民、百姓、女性の働き方について書かれているが、ここでは上の小説との関連から武士のみについて書くことにしたい。

 まずは江戸時代について。戦乱の時代から平和な時代となり、耕地面積の増加(新田開発)から人口が増加した。必要な基本的食料である米、麦ばかりでなく生活を豊かにするための作物、農産物を加工した商品が作られた。水陸の遠距離輸送が発達し、米や各地の産物が流通した。また、問屋、仲買、小売りといった商人の分業体制が発達した。こうした経済のベースとなった貨幣の普及があった。

 江戸時代の人口の大多数8~9割が百姓として村方で生活した。彼らは自給自足ではなく、生活に必要な商品を買うために、何らかの手段で銭を得ていた。幕府や藩は定期的に戸籍調査(人別改)を実施し、一戸ごとに戸主ならびに家族全員の名前と年齢を名主、組頭といった村役人が調査した。人別帳には百姓が所持する田畑の面積、石高、漁師、猟師、大工などの稼業も書かれることがあった。江戸時代後期になると、年貢の金銭による支払いが増えるとともに、大工、鍛冶屋、染め物屋、質屋、酒屋、宿屋、湯屋、居酒屋など副業が主たる生業となる百姓が増えていった。半年、一年、長期の出稼ぎが増え、金銭による雇用契約が行われた。関東地方やその周辺では武家屋敷や商家の下働きとして雇われた。しかし、出稼ぎの彼らは村方の戸籍であり、町方の戸籍をとるにはハードルがあった。町方との婚姻や養子縁組により町方の戸籍を得ることができた。

 武士家臣団の階層
 ①真性の「士分」②「徒士(かち}と呼ばれる準士分③「足軽層」④「中間・小者層」に分かれ、①と②が一般的に武士となる。①については何らの査定もなく、その地位が子どもに継承されるが、自らその立場を放棄できない(家督を子に譲って隠退することは可能)。武士上層ほど古典教養やマニュアル通りに職務にあたっていたが、これでは問題が解決しない分野が多くなってきた。そこでこうした分野(能楽、数学、経済学、土木工学)に精通した人物の登用、例えば二宮尊徳を行った。有能な人材を登用した分、家臣を減らすことはできないので、仕事のない武士を「小普請」と称した(この名称を持つ武士が時代小説の中で多く登場する)。彼らは俸禄を受けているが仕事はしない。

 最後に上記の小説で登場する「旗本」と「御家人」。旗本はおよそ5000家。半数は知行と呼ばれる領地を与えられた。残り半分は蔵米取。青山玄蕃は3250石の知行取だが、そのうち約4割が彼の収入となる(これが四公六民)。御家人は人数が1万5000人~1万8000人で、9割5分が蔵米取。江戸居住の旗本・御家人は浅草御蔵と呼ばれる幕府の米蔵でその俸禄米を受け取ることになる。実際には、受け取りや現金化は札差が行う。米は約5年ほど蓄えられるので、相当の古米を大部分の武士達は食べることになる。現金支出で最も額が大きいのは、使用人の給金。禄高30俵2人扶持の同心でも奥方だけで家事は回らないので下働きの少女一人か下人が必要となる。旗本となると、武家奉公人や奥女中などが加わり、収入の2割が取られる。彼らにとって、お付き合いが最大の関心事となあり、冠婚葬祭、季節のイベント、親戚とのやりとり、職場の上司や同僚への贈答にお金が必要となる。

 浅草御蔵

[剣客商売」道場というHPがあった ここに武士の俸禄についてわかりやすい説明がある
 単位が多く、これを見るまでは頭がくらくらするような状態だった


 家計の苦しい御家人は、傘張り、提灯張り、版木彫り、屋外で植木作り、鈴虫、こおろぎ、金魚の養殖を行った。同心については、様々な勤務形態があるが、おおむね3~5日に一日出勤すればよいので、暇は一杯あった。御家人株は100両以上、現在の価値で言えば2000万円で買うことができた(勝海舟の先祖の例が有名である)。
 
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失われた30年(日本の衰退) 24.8.16

2024-08-16 05:48:30 | 面白い本はないか
 

昨晩、梅雨明け以来の本格的な雨が降った。植物にとっては恵みの雨であり、おじさんには少しの休息となった。

 明日の母親の一周忌に合わせて帰省する予定だった息子夫婦は、昨晩の東海道線の落雷事故による不通のため、急遽名古屋で宿をとった。 


 伊丹敬之著「漂流する日本企業」を読んだ。

 この著者が過去に書いたいくつかの本を読んでいる。かつて(1990年以前)の日本的経営、すなわち人を大切にする経営を称賛していた経営学者である(「人本主義」という著書がある。)

 伊丹氏の本を読み終わった時、BSフジでディビット・アトキンソンと経済ジャーナリストの渋谷和宏が「日本の会社員の「やる気」の低さ」をテーマに議論していた。

 なぜ日本の企業が低迷しているのかという疑問にある程度答えてくれていると思うので、紹介する。
 ※以下の図は、最初の図を除くと全て伊丹氏の本からの引用である

 ①やる気が低いこと


 日本は「仕事に意欲的、積極的に取り組む人の」の割合が6%で最低、フランス7%、イタリア8%、韓国13%
 また、日本では24%が仕事に意欲を持てないと回答している
 ネットではこの数値への反論が載っている
 2012年から数値だが、それ以前はもう少し高かったのだろうかという疑問が当然出てくる

 以下でこの理由について、伊丹氏の本も合わせて参考にしながら述べてみたい。

 ②賃金がバブル以後ほとんど増加していない(賃上げは政府の政策課題となっている)
 ※20.11.3付けの当ブログ「日本はなぜ貧しくなってしまったのか」も参考となる

 日本企業はバブル崩壊後、三つの過剰、人、設備、債務の整理を図った。人は労働組合との合意もあり、人減らしは行わない代わりに、賃金を抑制した。合わせて、非正規雇用を増やした。また、設備投資を極力抑え、人的投資も減らした。さらに銀行からの債務を返済した。

 中小企業よりも大企業は労働分配率を低く抑えた(ただし、大企業と中小企業の賃金格差は大きい)

 人的投資額が増えるどころか減っている

 日本の労働生産性が低いのは、賃金が伸びない、人的投資が行われないからでないか

 ③設備投資を抑制した
  この傾向はいまだに続いている
  かつてOJT(職場での仕事を通じた研修)を積極的に行うことで日本の企業は有名だった
  しかし、今やその影もない
  なぜだろうか。渋谷氏は設備投資を行わないからだと述べている。すなわち、新しい技術や方法が導入されれば、それを使いこなすために研修をしなければならない。しなければ今までのスキルでこなせてしまう。

  
  積極的な投資ができなかった理由の一つとして、為替レートの変動が他国と比べて激しいということがある


 ③3つの過剰を抑制したことで売上はほとんど伸びていないのに利益率は高くなった
  結果日本企業は多額の内部留保を持つまでになった

 バブル崩壊後日本企業の売上は現在までにわずか100兆円しか増加しなかった

 
 一方で利益率は大幅に上昇した

 ④日本の企業(特に大企業)の配当額は今や設備投資額を上回った

 2000年以降のコーポレートガバナンス採用の中で必要以上に株主利益を重視した
 この時期に外国人株主の比率が大幅に上昇した

 人を大切にする経営から株主を大事にする経営へと変わってしまった

 ⑤人に投資してこなかったつけ
  デジタル人材の不足、海外派遣人材の不足、競争力の喪失
 
 バブルの崩壊後の緊急策が今や日本企業のデファクトスタンダードともなってしまった
 経営陣の高齢化(新しいことにチャレンジできない)も要因となっている
 
 このまま日本経済は沈没していくのであろうか
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