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ぶんやさんの記録

断想:復活節第3主日の福音書(C年)

2016-04-09 09:00:01 | ときのまにまに
断想:復活節第3主日の福音書(C年)
ティベリア湖畔にて  ヨハネ21:1~14

1. 資料問題
ヨハネ福音書は20:30~31に「本書の目的」が次のように記されている。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。この言葉に21章の結びの言葉(24~25節)「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」をつなぐととより完璧な結びの言葉となる。従って、第21章1~23は一旦完成したヨハネ福音書に、付加されたものであろう。その意味ではこの部分はかなり独立性が高い。これを付加した人物が誰か、何の目的でそういうことをしたのかは推測するしかない。
復活節第3主日では1~14節だけが取り上げられており、15~19節は、「使徒聖ペテロ・使徒パウロ日」(6月29日)、また19b~24節は「福音記者聖ヨハネ日」(12月27日)のテキストとして選ばれている。ただしこれらの日は主日に一致しない限りあまり取り上げられない主日である。

2. 大漁物語 (1~14) について
ルカ福音書の5:1~12にもこの物語とよく似た大漁物語がある。シモン・ペトロの弟子入りの切っ掛けとなった物語である。これらを比較すると類似点が実に多い。場所は「ゲネサレト湖畔」と「ティベリアス湖畔」で共にガリラヤ湖の別名である(Jh.6:1)。ガリラヤ湖が「ティベリアス湖」と呼ばれるようになったのは、ヘロデ・アンティパス王がローマ皇帝ティベリゥス(Tiberius、在位14~37)のご機嫌を取るためにガリラヤ湖西岸の風光明媚な場所にヘレニズム風の豪壮な別荘都市を建造し、その町を皇帝の名前をとって「ティベリアス」と呼んだことによる(紀元26~27)とされる。建てられた頃はユダヤ教正統派の人々はこの町を不浄の町として近づかなかったが、後にヘレニズム文化の中心都市となった。2世紀以後はユダヤ教における主要なセクトがここに形成されるようになった。この名称が見られるのはヨハネ福音書だけで6:1、6:23にも見られる。おそらくこの大漁物語はガリラヤ地方に流布していたイエスのエピソードの一つであり、ルカはそれをペトロの弟子入りの切っ掛けの物語に仕上げ、ヨハネは復活のイエスの顕現物語に仕上げたのであろう。どちらが本来のものであったのかということについてはもはや知ることはできない。いずれにせよ、この物語がペトロの生き方の大転換を示すエピソードであることは興味深い。ルカが福音書を書いたのが紀元80年代頃で、ヨハネ福音書の原本(仮説)は60年代、現在の形のヨハネ福音書は90年代から2世紀の初め頃の成立だとすると21章はそれ以後だと思われる。その間にガリラヤ湖についての名称を含めその他この物語の細部に口伝特有の変化が見られる。
たとえば、ペトロが「主だ」という叫び声に反応して「上着をまとって湖に飛び込んだ」という叙述もユーモラスであるがどうでもいいことである。どこかの話し上手の脚色かもしれない。あるいは、取った魚の数についても「153」という数字はいかにも何か(神学的な解説)がありそうな感じがする。松村克己先生は「4世紀のヒエロニムスによると、ギリシャの博物学者は魚の種類を153と数えたという。また、それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」という注釈について「カトリック教会では、福音の網はあらゆる人々(民族)を集め、しかも網は裂けず、一つとなっていることを象徴的に示すものだと解釈している」と説明している。
この問題について立教大学の聖書学の秋吉教授が面白い解釈を紹介している。「これはアグスチヌスの解釈であるが」とことわった上、「153」という数字は1から17までを足した数字であり、「17」という数字はj十戒の「10」にイエスの福音を完全なものとする完全数「7」という数字をあてはめているという。つまり、ユダヤ教の律法に打ち勝つイエスの福音がここに実現したのだという隠喩がある(池澤夏樹『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』118頁)。こういうことを考える伝統がユダヤにはあり、それを数秘術(numerology)という。また、「舟の右側に」という細かいことも、なぜ「左」ではいけないのか、伝承の過程において語り手に何らなの意味づけがあったのであろうが、現在ではその理由は分からなくなっている。ともかく、この物語は多くの人々の口を通して、語り継がれていくうちにいろいろな要素が吸収されたのであろう。

3. キリストの顕現物語
この顕現物語については復活後金曜日のテキストとしてそちらの方でかなり詳細に論じたので、ここでは簡単にまとめておく。(参照:「2016年復活後の週の断想(月~土)」 http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/434cc017c22015d09aa8317e82ca6db6 )

イエスが十字架刑により死んだとき弟子たちは逃げて、ガリラヤの地に戻った(と、思われる)(Jh.16:32、Mt.26:31~32)。そして興奮も冷めてガリラヤ湖において以前の漁師に戻ったのであろう。その日は一晩中網を打ったがまったく不漁であった。疲れた切っていたとき、岸から見知らぬ人物から「船の右側に網を打ってご覧」と声をかけられ、その通りにすると沈みそうになる程の大漁であった。その人物をヨハネは「主だ」という。その声を聞くやペトロは慌てて湖に飛び込んだ。その場面で笑ってしまうのは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」という。ペトロが湖に飛び込んだ理由が分からない。少しでも早くイエスの所に行きたかったというわけでもなさそうだ。そのことについて著者は何も語らない。だから読者としては勝手に想像するしかない。おそらく、ペトロはまともにイエスの顔を見ることが出来なかったのかも知れない。思い返せば、ペトロがイエスの弟子かと問われたとき、「知らない」といってイエスを見捨てた。だから、今さらすました顔で、何事もなかったように、「お元気ですか」などと挨拶するわけにもいかない。おそらく穴があったらそこに潜り込みたい心境だと思われる。それが上着を着て湖に飛び込むという行動になったのかも知れない。陸に上がってもすぐにはイエスの所に行っていないようだ。むしろイエスから「今とった魚を何匹か持ってきなさい」という他の弟子たちに対する声を聞いてから、ペトロは船に乗り込んで、網を引き上げるのを手伝っている。端から見ていて実におかしい。他の弟子たちもイエスに向かって「あなたはどなたですか」と訊ねる者もいない。むしろ、その気まずい沈黙を破るように、イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と声をかける。気まずい思いで一緒に食事をする風景は以前にもあった。ともあれ、ここではイエスが準備した食べ物に弟子たちが獲ってきた魚を交えて、それを囲んで食事をした。
以上がティベリアス湖畔でのイエスの顕現物語である。今日のテキストもここまでである。15節から19節までは「使徒聖ペテロ日および使徒聖パウロ日」のテキストであるが、ここではこの部分を取り上げる。

4.気まずい食事の後で
イエスも、弟子たちも、ほとんど言葉を交わさず、気まずい食事も終わった。この沈黙を破ったのはイエスであった。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに声をかけた。ここで著者はわざわざペトロをフルネームでいう。イエスもペトロにフルネームで呼びかける、「ヨハネの子シモン」(Jh.1:42)。この言葉を聞いたときペトロはどんな気持ちだったであろう。さぁ、いよいよ来た。名前を呼ばれるだけでペトロは縮み上がったかも知れない。胸はたかなり、心臓ががくがくしたかも知れない。おそらくイエスの声は静かに、ペテロのころころに問いかけるように、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。イエスは彼らがこうして同じ船に乗って漁をしているというだけで、ペトロがどれ程彼らを愛しているのか、一目瞭然であった。というよりも、それは共にイエスに従ったという仲間への愛と責任であったであろう。落ち込んでいる彼らをほっておけない。従って、イエスに「彼ら以上にわたしを愛しているか」という言葉は意味慎重である。この場面で、ある意味で、彼らを棄ててでも私を愛しているのか、という問いでもある。あの時、あなたは私を棄てて、彼らと共に逃げ出した。ある意味で、ペトロはイエスを棄てて彼らを愛したのである。この問いの前に、ますます身を縮めて、声にもならない声で「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ハッキリ自分の言葉で「あなたを愛している」と言えない。この言葉は、自分の気持ちを完全に「あなた」に任せている。その時、それに応えるように「わたしの小羊を飼いなさい」とイエスは言われた。これはあなたがあの時、彼らと一緒に逃げたことを承認する言葉である。いわば「事後承認」である。言葉を換えていうと、「それで良かったのだよ」。この言葉によってペトロの気持ちがどれ程解放されたことであろう。
イエスの言葉はそれだけで終わらなかった。再び、前と同じ言葉で「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。この問いには「この人たち以上に」という言葉がない。つまり比較がない。いわばストレートである。イエスとペトロとの間に、責任感とか今までの行きがかりとか、損得とかいうものを一切挟まないで、「わたしを愛するか」。この問いに対してもペトロは前と同じ言葉で答えている。ペトロには「わたしが愛する」という「わたし」に対する自信がない。人間の決意とか愛というものの儚さを誰よりも知っているのがペトロである。あの時には、実に勇ましく、「主よ、あなたのためなら命を捨てます」(Jh.13:37)と言い切ったのである。その時のイエスの言葉をペトロは生涯忘れない。「わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないというだろう」。そして、それはその通りになったのだった。この時ペトロはその一連の出来事を思い起こしていたに違いない。これに対してイエスは「わたしの羊の世話をしなさい」と応えられた。同じような返事ではあるが微妙なところで違う。最初の言葉は「小羊」であったが、ここでは「羊」である。「小羊」と「羊」、どう違うのか、ハッキリその違いを解説することは出来ない。むしろ、「飼いなさい」と「世話をしなさい」との違いの方が重要であろう。この「世話をしなさい」を田川建三は「牧せ」と訳している。「飼う」と「牧す」どう違うのであろう。カトリックの小林稔は前者を「世話をしなさい」、後者を「牧しなさい」と訳し分けている。まぁ、それぞれが自由に想像したらいいのであろう。
さらにイエスは問いかける。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。三度とも同じ質問に思えるが、三度目は少し違う。ここで用いられている「愛」は「フィレオー」で前の2回は「アガペー」で、ペトロの方の答えは、3回とも「フィレオー」である。田川建三はここではこの2つの単語はまったく同義語としても強いられているという。しかし、小林稔は「アガペー」を「愛している」、フィレオーを「ほれこんでいる」と訳し分けている。しかし、結局訳し分けてもあまり意味はなさそうである。イエスの3度もの質問では愛するかという言葉をフィオレーに言い換えているが、あまり意味はなさそうである。むしろペトロの方が三度も同じ質問をされたことで「悲しくなった」という。この言葉を口語訳、新改訳では「心をいためて」、文語訳では「憂うと訳している。田川建三は「困惑した」、小林訳では「悲しくなった」という。つまり、師であるイエスから二度も同じ質問をされて、それに誠実に応えているのに、さらに三度も質問され、どう答えたらいいのか、私の答えが不十分なのか、もうそれ以上答えようがない。さすがのペトロも「うんざり」してしまったのであろう。それでも、ペトロはなおも誠実に「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えている。言葉は悪いがペトロは「自棄のやん八」という心理状況であったのであろう。私も考える。どういう意味であろう。多くの注解者はこれはペトロが3回イエスを「知らない」と言ったことに対応していると解釈しているが、私はそんなことではないと思う。もしそうだとすると、イエスはペトロに対して一種の「復讐」をしていることになるではないか。イエスとペトロの間で、問い、答える関係は無用である、とペトロは言う。「あなたはすべてをご存じです」という言葉がそれを示す。もう、問い、答える関係は必要ない。ペトロは「すべてをご存じ」の方の前に完全降伏である。
ここからは私の独断である。初めの「わたしの小羊を飼いなさい」と最後の「わたしの羊を飼いなさい」とは同じ「飼いなさい」という言葉が用いられている。しかし、「飼いなさい」の深みが違うのではないか。「飼う」という言葉は同時に「養う」という意味でもある。初めの方の「養う」をおそらくペトロは「私が」養うという風に受け止めたのだと思う。私の責任として、イエスの小羊たちを養う。しかし、最後の「養う」においては「私」がなくなっている。私は主に完全に克服されている「私」であり、それは「無私の私」である。ただ主に対する無としての私、主の下僕、道具としての私である。イエスはペトロをそこ迄追い込んだ上で「わたしの羊を養え」と言われている。
18~19節では、ペトロの死に方についての意味深長な言葉が語られる。そこに見られるペトロの姿は完全に無力化されたペトロの姿である。しかし、完全に無力化されたペトロが神の栄光を現す。そこまで話した上で、ペトロに対して「わたしに従いなさい」(Mk.1:17、Mt.4:19)と若き日のペトロに呼びかけられた、あの言葉が繰り返される。これはただ単なる繰り返しではない。極限を究めた「従いなさい」である。

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