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ぶんやさんの記録

断想:復活日 (2018.4.1)

2018-03-30 07:57:08 | 説教
断想:復活日 (2018.4.1)

復活の朝   マルコ16:1~8

<テキスト、私訳>
◆復活する(16:1~8)
さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメの3人はご遺体に塗るための香料を準備いたしました。そして週の初めの日の早朝、日の出のころ墓に出向きました。途中で彼女たちは、「墓の入口に置かれているあの大きな石を、誰かに転がして貰わなければなりませんね」などと話し合っていました。墓に着いてみると、あの大きな石は転がっていました。
墓の中に入ると、右手に真白な長い衣を着た若者が坐っているのを見て、非常に驚きました。
若者は口を開いて、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスは甦って、ここにはおられない。ご覧なさい。ここがご遺体をお納めした場所です。今から弟子たちとペトロとの所へ行って、イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれると伝えてください。かねて、あなたがたに言われた通り、そこでお会いできるでしょう」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去りました。そして、人には何も話しませんでした。怖かったからです。

<以上>

1. マルコ福音書における復活物語
マルコ福音書における復活物語を取り上げるに際して、実に複雑な資料問題が解釈者の行く手を阻む。文書を筆写によってしか伝達・複製できない時代において、そもそも「本文」を確定するのは至難の業である。何が本文であり、何が写本なのかということさえ定かではない。マルコという人物が実在し、その人がマルコ福音書を書いたとして、そのもともとの福音書の形はどうだったのかということは、誰にも決定できない。そこで「本文(批判)研究」という複雑で専門的な調査研究が重要な役割を持つことになる。
マルコ福音書の場合、もともとの福音書(それを一応「原マルコ福音書」と呼ぶ)は、13章37節までで、14章1節から15章47節までは作者不明の独立した「受難物語」であり、16章1節から8節までは受難物語に付加された別の作者による「復活物語」であり、それらが結合して現在のマルコ福音書が成立した、というのが、おお方の大雑把な理解である。
余程、専門的にマルコ福音書を研究し論文を書くのでなければ、以上のような大雑把な理解で我慢するほかないであろう。ただ、言語の用い方や思想的内容から見て、復活物語と呼ばれている部分は13章までの本来のマルコ福音書と似かよっており、内容的にも矛盾がないと思われるので、マルコ自身の手によるものであるという意見もある。
その問題とは別に、マルコ福音書の「結び」の問題がある。16章8節はいかにも唐突な終わり方であるが、ほとんどの有力な写本はここで終わっている。それにしても、最後の言葉が「ガル(ギリシア語の接続詞で、『つまり』を意味する)」というのは不自然で、最後のページが紛失したのではなかろうかという仮説も無視できない。ともかく、マルコ福音書にはマルコの知らない2つの「結び」が存在する。文語訳聖書と口語訳聖書では9節から20節までを付加している。それに対して、新共同訳とフランシスコ会版、いのちのことば社版ではもう一つの「結び」も並行的にとりあげ、掲載している。この点については後でもう一度取り上げる。
ともかく、私たちに与えられている本日のテキストはマルコ福音書の一部である16:1~8であり、このペリコーペから本日のメッセージを聞き取らねばならない。

2. 復活の証言者たち
マルコ福音書によると、最初の復活の朝、イエスが葬られた墓を訪れたのは3人の婦人たちであった。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人である。この3人はイエスの十字架を「遠くから見守っていた婦人たち」(マルコ15:40)で、彼女たちはイエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である、と説明されている。マタイ福音書では「大勢の婦人たち」ということになり、その中に「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」がいた(マタイ27:55,56)とされるが、復活の朝は「マグダラのマリアともう一人のマリア」(マタイ28:1)だけが訪れたことになっている。ルカでは「遠くに立って」見ていたのは「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たち」であり、個人名は省かれているが、明らかに他の大勢の「見物人」たちとは区別されている(ルカ23:48,49)。そして、復活の朝に墓を訪れたのは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブのはマリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(ルカ24:10)であったとされる。ヨハネ福音書では、婦人たちの名前が少し異なる。「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア」の4人で、しかも立っていた場所は「十字架の側」ということになっている。復活の記事においては、ヨハネ福音書では「マグダラのマリア」(ヨハネ20:1)だけが墓に行ったことになっており、しかも彼女だけが復活のイエスに会い、会話をしている(ヨハネ20:14)。十字架の現場を見ていた人々と復活の朝「空虚な墓」を発見した人々こそが、本当の意味での「復活の証人」に他ならない。これらの証人たちのリストを比較するだけでも、それぞれの著者の思いが込められていることは明白である。

3. 墓に向かう女たち
最初のイースターの朝、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の婦人たちはイエスが葬られている墓を訪れた。イエスが十字架上で亡くなられた翌日は安息日であったので、彼女たちは墓参りをする事が出来なかった。日が明けるのを待ちわびて、彼女たちは墓を訪れた。墓に向かう彼女たちの気持ちは複雑であった。仲間の男たち、イエスの直弟子と呼ばれている12人は意気消沈し、隠れ家に身を潜めている。特に、ペトロの落込みようは尋常ではない。
「女なら」という判断もあったのだろう。しかし、それにしても犯罪人の墓地を訪れるということには大きな勇気がいったであろう。イエスのご遺体に塗るための香料も準備はした。しかし、ご遺体に近づけるかどうかも、分からない。墓地に向かう女性たちの会話は「誰があの石を転がしてくれるのか」ということであった。問題は「石」だけではない。イエスの遺体に近づこうとする彼女たちを妨げるものである。妨げるものはいくらでもあった。むしろ、「香料を塗る」という願いがかなうことの方が不可能に近かった。それでも、彼女たちは墓に向かった。何が、それ程彼女たちの心をかき立てたのだろう。

4. 墓参りの意味
だいたい、この場合「墓参り」ということがどれほど意味を持っているのだろうか。常識で考えれば、全く意味がない。もうイエスの運動は終わったのである。あれほどに燃え上がり、何もかもそのために放棄して、人生を掛けてきた運動も唯一人の指導者の死によって終わってしまう。
それでもなおかつ、彼女たちはイエスの墓に向かった。なぜなら、そこには彼女たが愛したイエスの遺体があるから。それはイエスの遺体であると同時に彼女たち自身の遺体でもある。それはイエスとともに過ごした「燃えた青春の遺体」でもある。彼女たちが墓に向かって歩くことは、実は彼女たちは彼女たち自身の「過去」に向かって生きることを意味している。
「若き日の思い出」、「先祖や親たちの栄光」、これらは全て「過去」に属する。人間は過去を大切にしなければならない。しかし、それはあくまでも自分たちの現在と将来のためである。彼女たちにとって、イエスの墓には将来に向かう何ものもなければ、現在の否定でもある。すべては十字架において終わった。十字架は過去の終結である。人間は「過去」に向かって「生き生き」と生きることは出来ない。過去に向かう人生は、人生そのものが「墓場」である。

5. 「ここにはおられない」
墓に向かった女たちに語られた最初のイースターメッセージに注目しよう。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスは甦って、ここにはおられない。ご覧なさい。ここがご遺体をお納めした場所です。今から弟子たちとペトロとの所へ行って、イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれると伝えてください。かねて、あなたがたに言われた通り、そこでお会いできるでしょう」。
確かにそこはイエスの墓である。イエスのご遺体は確かにそこに納められた。恐らく、イエスの体臭がそこに残っていたに違いない。イエスは歴史の中から、突然消えてしまったのではない。イエスは一人の人間として一生懸命生き、そして死なれた。そのイエスの人生は全て「過去のもの」として墓地に葬られた。「過去のイエス」、「思い出の中のイエス」に会いたいなら、墓に行くしかない。「十字架につけられたナザレのイエス」とは、まさに「過去のイエス」に他ならない。ところが、イエスにおいては「過去のイエス」も「墓におられない」。イエスにおいては「過去」がない。常に現在であり、将来である。誰かの「墓」を訪れ、「過去の誰か」「思い出の中の誰か」に会うということは、つまり「過去の自分」に向かうことである。イエスには「過去」がない、ということは私たちがイエスに向かうとき、それは何時も現在と将来に向かうことである。イエスにおいては「過去の私」はない。それが「復活」という事実である。復活という出来事は「空っぽの墓」によって証明される。

6. 「ナザレのイエス」
空っぽの墓の中の若者はイエスのことを「十字架につけられたナザレのイエス」と言う。マタイ福音書における天使は「ナザレの」という修飾語を省略して「十字架につけられたイエス」(マタイ28:5)と言う。マルコが用いている「十字架につけられた」という表現はいかにも神学的でマルコらしくない。それに比べると、「十字架につけられたイエス」という表現は、いわばマタイ好みというべきであろう。おそらく、マルコのオリジナルは単に「ナザレのイエス」という表現であったのを、後代の信仰者がマタイの表現を逆輸入してマルコに付加したものと思われる。すでにマタイ福音書を知っている人物が、マルコ福音書を筆写する際にそういうことは十分起こりうることである。ルカ福音書においては「輝く衣を着た2人の人」は、もっと信仰的に「生きている方を死者の中に捜すのか」(ルカ24:5)と語らせる。なかなか文学的で味わい深い表現であるが、それだけにリアリティ(生々しさ)が失われている。
福音書の中でイエスのことを単に「ナザレのイエス」と称している個所はそんなに多くはない。マタイで1個所、マルコで4個所、ルカとヨハネがそれぞれが3個所である。その内、マルコ2:24とルカ4:34とは平行記事で、汚れた霊がイエスに対して語る言葉であり、マタイ26:71とマルコ14:67も同様に平行記事でこちらの方は最高法院の中庭で女中の一人がペトロに対して言った言葉である。マルコ10:47とルカ18:37とはバルティマイという盲人が耳にした群衆の声である。ヨハネ18:5,8はイエスを捕縛しようとするローマの兵隊たちの言葉である。ヨハネ19:19は十字架に書かれた罪状書きの文章である。以上のすべての個所はいずれもイエスに敵対する立場の人間たちの言葉であるが、ルカ24:19だけは復活のイエスとエマオという地方への途上で出会った2人の弟子の言葉で、この状況の中でいわばイエスを見放し、イエスから遠ざかろうとしている弟子の心情が美事に描かれている。
もう少し、視野を広めて考察すると、使徒言行録ではこの表現は7回現れ、その内6回はペトロ(4回)、ステパノ(1回)、パウロ(1回)たちの説教の中で用いられており、教会外の人たちに「あのイエス」を指し示す言葉として「ナザレのイエス」という表現がとられているものと思われる。ただ、残りの1回については、少しニュアンスが異なるように思われる。使徒言行録22:8では、パウロが信徒たちを捕縛するため目的でダマスコへ行く途上で顕現したイエス自身の言葉である。つまり、ここでは明らかに「お前が迫害しているあのナザレのイエスだ」というニュアンスが込められている。
以上のような言葉づかいを考慮すると、資料が少ないので、そこまで断定するわけにはいかないが、マルコはあえて、一つの主張を持って「ナザレのイエス」という表現をとったものだと思われる。マルコは復活のイエスを指し示すのに、「栄光に輝くイエス」ではなく、人々が軽蔑し、批判した、また弟子たちでさえ見放したあのイエス、ナザレという一地方で現実に生き、働き、飢え、戦い、最後は十字架上で犯罪者として処刑されたあのイエスを「ナザレのイエス」という言葉で表現する。

7.ナザレ村
イエス当時のナザレはガリラヤ地方にある人口約400人〜500人程の小さな寒村である。しかし、ナザレ村は武装蜂起した民衆に対するローマの叛乱鎮圧についての陰惨な記憶を持つ村でもあった。紀元前57年、ローマ帝国のガリラヤ支配の責任者であったシリア総督ガビニウス(BC.57~55)が叛乱軍を鎮圧し、捕虜としたガリラヤ人約1万人をナザレ近郊のタボル山(標高588m)のふもとで虐殺した事件である。当時のガリラヤの人口が約15万人と言われているので、その内の1万人というのは決して少ない数ではない(山口雅弘『イエス誕生の夜明け、ガリラヤの歴史と人々』日本基督教団出版局、130頁)。この犠牲者の中にはナザレからの参加者も多く含まれていたものと推測される。
イエス誕生の頃(紀元前4年)にも「セフォリスの破壊」という事件が起こっている。ヘロデ王の死去を契機として反ローマ叛乱が起こった。叛乱は将軍ウァルスの大軍によって鎮圧され、拠点であったセフォリスは焼き払われた。その時の叛乱分子約2000人は十字架刑に処せられたという。このセフォリスはナザレから6キロほどのところにあったガリラヤ地方の中心都市で、当時の人口は約1万人という。しかし、このセフォリスについて福音書が一言も触れていないということも不思議なことである。
これらの歴史から見て、ナザレ村はかなりローマにとっては危険な地域であることが分かる。この村出身というだけで十分警戒されたことだろう。ヨハネはナタナエルという謹厳実直なユダヤ人の口を借りて、ただ一言「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言わせている。

8. 「とペトロ」
若者が婦人たちに語った言葉の中で「今から弟子たちの所へ行って〜〜伝えなさい」という言葉の中に、「とペトロ(カイ トー ペテロ)」(16:7)といういわば一見無意味と思われる言葉が付け加えられている。なかなか、意味慎重である。「弟子たちに」と言えば、当然そこにペトロも含まれているだろうし、ペトロに伝えるということは当然のことである。それにもかかわらず、わざわざ「とペトロ」という言葉を付け加えた真意は何か。ここには「特に」という復活のイエスのペトロに対する特別扱いの含みが感じられる。ペトロが弟子の代表だからだろうか。否、むしろ「ナザレのイエス」という言葉との関連でいうと、ペトロは最高法院の中庭において、女中の一人のから「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」(マルコ14:67)と指摘されたとき、それを否定したのであった。その意味でペトロにとって「ナザレのイエス」という言葉には、自分の弱さを思い知った深い悔悟の思いがあった。「とペトロ」という言葉には、復活のイエスのペトロに対する非常に深い思い入れがあった、と思う。

9. 「誰にも言わなかった」
マルコ福音書の最後の言葉(16:8)は深い謎を含んでいる。この謎はダヴィンチ・コードの謎よりももっと深い。婦人たちはあまりの恐ろしさで、イエスが復活したという情報を弟子たちに伝えなかったと言う。他の福音書はすべて婦人たちが弟子たちに伝えたということをはっきりと記録している。この矛盾をどう理解すべきか。たとえ、マルコが婦人たちは恐ろしさのあまりに伝えなかったと述べたとしても、私たちは他の福音書を読んでそれを補い、少し落ち着いてから婦人たちも弟子たちに伝えたのだろうぐらいに理解して少しも困らない。いわば、マルコの言葉を無視できる。事実、そういう風にして私たちはこの謎を何の苦労もなく解決してきた。しかし事実はそうはいかない。マルコが福音書を書いた頃には少なくとも現在、私たちが正典として持っている福音書は存在していなかったのである。そうすると、婦人たちは恐ろしさのあまり弟子たちに何も言わなかったという言葉で福音書が終わっているとしたら、それを読んだ人たちは、それじゃ弟子たちはガリラヤでイエスと会ったのか、そもそも復活のイエスと弟子たちは何時、何処で会ったのだろうかという疑問が謎として残る。これはまさに2000年以上にわたるキリスト教史における謎である。もっとも、復活のイエスの顕現は空虚な墓におけるメッセージだけではなく、エマオへの道における2人の弟子への顕現、エルサレムにおける密室での弟子たちへの顕現、ダマスコ途上におけるパウロへの顕現などいくつかの伝承があり、婦人たちが沈黙していたこと自体は無視できるのかも知れない。しかし婦人たちが墓地で経験したことと、その後のいくつかの顕現ということとは、イエスの復活という出来事を語るリアリティのレベルがちがう。空虚な墓での婦人たちの経験抜きでは復活という出来事はリアリティを失う。初期のキリスト者たちもこのことについては無視できなかっただろうし、またそのことを一番知っていたのはマルコである。従って、婦人たちが沈黙していたとしてもその事実は何時しか多くの信徒たちが知るところとなったであろう。そういう状況を前提とすると、ここでマルコが、そんなことは承知の上で、あえて「婦人たちは恐ろしさのあまり、誰にも言わなかった」と語るメッセージは重要である。
特に、ペトロに対する特別のメッセージがペトロには届かなかった、という事実は無視できない。おそらく、マルコは特にこのことをここではっきりさせたかったのかも知れない。もし、「ガリラヤで待つ」というメッセージをペトロがしっかり受け止めていたら、キリスト教会は今とは違う道を進んだかも知れない。ペトロに指導されたキリスト教会は復活のイエスの思いとは別な方向に進んでしまった、と言ったら言いすぎであろうか。

10. 復活したイエスが弟子たちと会う場所
若者によって伝えられたイエスからの言づての中心は、「ガリラヤで待っている」というメッセージであった。復活者イエスにお会いできる場所、それはガリラヤである。決してエルサレムの都ではない。マタイも一応このマルコの言葉を受け継いでいるが、その直後に墓地のすぐ側で婦人たちに顕現し、「おはよう」などと挨拶をしている。これはこれでマタイなりの解釈があるのだろう。ルカはガリラヤに関する言づてを「ガリラヤにおられた頃、お話しになっていたことを思い出しなさい」(ルカ24:6)という言葉にすり替えている。そして、復活のイエスの最初の顕現は「エマオの途上」とされる(参照マルコ16:12~13)。ヨハネは「ガリラヤ」問題を完全に無視し、マグダラのマリアへの顕現を大きく取り上げる。つまり、福音書記者たちの復活記事の取り扱いは、断片的で統一性がなくバラバラである。その中で、マルコは復活のイエスは弟子たちに対して「ガリラヤで会おう」というメッセージを残しておられる。しかし、そのことについて実際どうなったのかということについては触れていない。
なぜ、マルコはガリラヤにこだわるのだろうか。マルコにとってガリラヤとはどういう場所なのか。ガリラヤとはイエスが3年間、いなその人生のほとんどを過ごされた場所であり、特に最後の3年間語り、癒し、教え、慰め、要するに全精力を注ぎ出して人々に仕えた場所であり、今もイエスの働きを必要としている場所である。ガリラヤ地方の歴史的特異性については田川建三氏の『原始キリスト教史の一断片──福音書文学の成立』(勁草書房)に詳細に論じられているので省略する。
ただ一点、イエスにとってエルサレムは「死に場所」であり、ガリラヤは「生きる場所」である。単にかつて生きた場所ではなく、これからもずっと生きる場所であり、生きなければならない場所である。そここそ、人々がイエスを必要とし、イエスもその人びとと共に生きようと願っている場所である。マルコが、イエスの言葉として「ガリラヤで待つ」という言葉を受け取り、私たちに語るときのガリラヤとはそういう場所である。

11. 「より先に」
復活したイエスは弟子たちより「先に」ガリラヤへ行き、弟子たちを待っている、と言われる。時間空間のカテゴリーを越えた復活者にとって、この「先に」とはどういう意味であろうか。後とか、前とかいう概念は当てはまらない。とすると、この「先に」とは普通考えられる前後関係ではなく、むしろ復活の主が行かれるところ、おられるところ、そこが「ガリラヤ」である、という意味に解するのが無理がないように思う。イエスが行かれるところ、そこに私たちも行く。そう理解することによって、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)というイエスの命令、「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(16:20)というもう一つの「結びの言葉」と結合される。
私たちにとって、ガリラヤとはどこか。それは一人一人異なった場所、しかし少なくとも問題を抱え、人々が悩み、苦しみ、助けを求めている場所である。そこで、復活のイエスと出会うことが出来る。そこでだけ、イエスは私たちと出会われる。

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