ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 07/15~07/21

2012-08-01 08:31:45 | ローズンゲン
losungenj 2012.07.15(sun)
あなたは民らを慈しむ。(Deut33:3)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1Joh4:19)
私の黙想:
モーセが死の直前に語った祝福の言葉。各部族の名をあげ祝福する。たとえ彼が夢み、その人生をかけて目指した「乳と蜜の流れる約束の地」を目の前にして、そこに入ることが許されなかったとしても、主はモーセを天に迎えられた。主が「顔と顔をと合わせて選んだ」(Deut34:10)モーセの最期は美しい。彼のような指導者は2度と現れない。
losungenj 2012.07.16(mon)
主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を、成し遂げてくださるのはあなたです。(Isa26:12)
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。(1Cor15:10)
私の黙想:イエスは「幸いなるかな、平和ならしむる者」と言われた。平和を作り出す者は「私たち」である。その為に自己を捨て、努力したのは私たちである。私たちは平和を作り出すために原爆を開発した(と一応信じておこう)。今、私たちは平和のために原爆も原発も捨てる勇気を神から求められている。

門叶国泰 新共同訳が「お授けください」と訳している箇所のマソラ原文は「シャーパト(原意set):2人称・未完了」である。これを、新共同訳のように「願望」と解することは文法的には可能であるが、これでは「私達が為す、すべての業は、神が為される」との信仰告白と矛盾しないか? 新改訳は原文に忠実に、「主よ、あなたは私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから」と訳している。口語訳・フランシスコ会訳・RSVも、ほぼ新改訳に近い。
文屋 善明 私は後半の「私が為す業」と「神が成し遂げてくださる」との矛盾の方に黙想の方向が向きました。平和のためという人間の思いと行為とが結局平和に繋がらないという矛盾を抱えている。これを正すのは神だという思いが私にはあります。
門叶 国泰 黙想拝読しました。有難うございます。文法的には:未完了のjussive用法は、通常は3人称。よって、Weingreen Text は2人称を説明していません。
門叶 国泰 もちろん、2人称の未完了・jussive用法は聖書にところどころに垣間見ることがありますが。新共同訳が、各種の翻訳を承知の上で、敢えて、例外的な2人称jussiveと解したのか、そちらの方が気になります。

文屋 善明 ヘブライ語の文法のことはよく分かりませんが、おそらく門叶さんが言われていることが正しいのだと思っています。ただ、「平和」という概念あるいは状態は「願望」なのが「現在」なのかという言う哲学的問題になると、その人自身の立場とも関係し、どうともいえません。
文屋 善明 今の日本は平和なのか、どうか。「平和ボケ」とは平和だからなるのか、平和への願望を忘れさせるまやかしなのか。とくに「神から与えられた平和」はすでに現実になっているのか、将来の実現に向けて祈りの課題なのか。非常に難しい問題です。

losungenj 2012.07.17(tue)
あなたは必ず御覧になって御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます。(Ps10:14)
イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(Mark6:34)
私の黙想:
神との距離感を考えている。聖書における神観の基本は神との距離が一人ひとり違うということであろう。アブラハムとかモーセ、あるいはイエスのことはさておき、神は貧しい者、弱い者、苦しめられている者の味方である。「苦しいときの神頼み」が通じる神である。

losungenj 2012.07.18(wed)
さあ、共に行って、主の恵みを求め万軍の主を尋ね求めよう。わたしも喜んで行きます。(Zech8:21)
人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。(Mark8:22)
私の黙想:
「さそうということ」、漢字で書くと「誘う」で誘惑という意味が強まり、マイナスのイメージが強くなる。ここでは「万軍の主」の前に共に出かけ、共に祝いに参加しようというさそいである。明らかにいえすらエル内部における神観念の変化が見られる。

losungenj 2012.07.19(thu)
神は地の果てまで見渡し天の下、すべてのものを見ておられる。(Job28:24)
神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。(1Joh3:20)
私の黙想:
この聖句の裏側には、「だが人間の知識はそこまでは及ばない」という意味が込められている。神の絶対知の前に人間は無知に等しい。唯一つ、神を畏れることに由来する知恵のみが人間にとって有効であり、このことを悟ることによってのみ、無知による弊害を克服できる(28節)。

losungenj 2012.07.20(fri)
ダニエルはいつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。(Dan6:11)
わたしたちは、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2Cor4:9)
私の黙想:
信仰者はこの世の法律よりも上位の関係の中で生きている。ここでの「窓際にひざまずき」という言葉は、この世の権威や謀略を恐れない信仰者の強さが表現されている。ダニエルは「こそこそ」信仰を守っているのではない。私は決して日本における隠れキリシタンを否定しない。むしろ彼らの「隠れ」によって日本におけるキリスト教信仰は深められた。


losungenj 2012.07.21(sat)
主は御自分の民に贖いを送り契約をとこしえのものと定められた。(Ps111:9)
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(Rom5:1)
私の黙想:
「贖い」という言葉が出てくると変に緊張する。今日の「贖いを送り」はよく理解出来ない。贖いを誰に送ったのか。贖われる本人に送るのも違和感がある。口語訳では「贖いを施し」、フランシスコ会訳では単に「贖い」、聖公会の祈祷書訳ではもっと単純に「救い」で分かりやすい。要するに奴隷(=私自身)を解放するために身代金(身請け金)準備し、出し、落籍してくれたということであろう。

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