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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/9/9~9/15

2018-09-15 13:06:49 | ツイッター
今週のローズンゲン 2018/9/9~9/15

2018 日々の聖句 9月9日㈰
(しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。)打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。(詩51:19)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

私の黙想:
今日の聖句は19節後半のみ。ここで問題になっていることは比較の問題で、神の前では、前半の「生け贄」よりも後半の「悔いる心」の方が意味があるという。従って前半を省いたら意味をなさない。身を切るような「生け贄」に対応する「悔いる心」、それはなま易しいレベルの「悔い」ではない。それこそ自分自身を守る地位も立場も擲って心をさらけ出す行為である。それと比較するならどんなに犠牲を払ってでも「生け贄」で済ませた方が楽である。ここでの「生け贄」とは、現代に当てはめると「教会生活」ということであろうか。
前にも触れたが詩篇51と言えば「罪を悔い改める詩」である。とくにダビデが犯した罪を悔い改めたときの詩である。だからここでは罪を赦しのために必要なことが主題である。

2018 日々の聖句 9月10日㈪
わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。(エレミヤ15:20)

イエスの言葉:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ14:1)

私の黙想:
屁理屈を言うと、ヤハウエが共におられて「救い出さればならない状況になることがあるのだろうか?ヤハウエはそうなる前に助けてくれるであろう。要するにヤハウエが共にいるというその存在の仕方が問題なのであろう。通常は共に居ないかのようで、いざという時に、顔を出してくれる。
ここでの「あなた」とは預言者エレミヤ自身である。この預言者の特徴は神の言葉と民衆との板挟みに立っているという点にある。それは必ずしもエレミヤ個人の責任に帰することはできない。いわば、歴史的状況がそういう時代であったということである。エレミヤが置かれていた状況をこの節の前半で次のように述べている。「この民に対してわたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らはあなたに戦いを挑むが勝つことはできない」。何という力強い言葉である。エレミヤに逆らう民衆に対してヤハウェはエレミヤを「堅固な青銅の城壁」とすると言われる。だから民衆がどんなに騒ぎ、預言者に逆らおうと、歴史の流れは変わらない。
私たち現代の伝道者たちもエレミヤのようであって欲しい。

2018 日々の聖句 9月11日㈫
神のまことは大盾、小盾。(詩91:4)

主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。(1テサロニケ3:3)

私の黙想:
二刀流が大流行である。「大盾と小盾」の二刀流であるが、ここでは「刀」ではなく「盾」であるから二刀流という表現が相応しいかどうか疑問である。盾とは敵の攻撃から「身を守る」防具である。自衛隊で言うなら「専守防衛」ということである。
専守防衛のカギ、方法、目的は「まこと」である。国際レベルで言うなら「理性」、しかもここでは「神の」という修飾語が付いている。神を信じている者も無神論者も、暴力よりも理性の方が強いということは信じるであろう。
膨大な聖書の言葉から、著者も文脈も無視して極短い一句だけを取り出した黙想の実例。

2018 日々の聖句 9月12日㈬
憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとします。(詩57:2)

子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。(1ヨハネ2:12)

私の黙想:
さて、今日の聖句で何を考えろというのだろうか。何も考えることがない。ただ、そのまま「私の祈り」とするしかない。この詩には「【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。】という前文がある。この前文を読むと、これはダビデの作とされているが、私はこの詩のダビデと一体化できない。(当然、この詩をダビデの作とは考えられない)。
この詩人の「敵」は「わたしを踏みにじる者」であり、詩人の置かれている状況は「はわたしの魂は獅子の中に火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように舌は剣のように、鋭いのです」だという。これはかなり異常な状況であり、そのような状況を私自身の状況多重ねることは難しい。と、まぁそんなことを考えながら、この詩を読み返す。ということで、教会でよく使われる「憐れみ」という言葉について考える。「憐れみ」とは「可哀想に思うこと」で、神に「私を可哀想に思ってください」という祈りになる。
礼拝式文(聖公会)では「主よ、憐れみ給え」(キリエ、エレイソン)という言葉が用いられる。礼拝におけるこの言葉は私には違和感がある。(参照:https://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/0a85cba2c32d73b242d1945f0da4f103 )

2018 日々の聖句 9月13日㈭
主の言葉:見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。(出エジプト23:20)

主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(2テモテ4:18)

私の黙想:
今日の聖句が、出エジプト記の言葉だとすると、ここで述べられていることの背景について改めて調べることもない。この言葉はエジプトを脱出した民が約束の地に至るまでの道行きについてのヤハウェの約束の言葉である。民にとっては約束の地とは何処にあるのか、どういう所かまったく予備知識はなかった。当然、その道筋についても確かな地図はなかったであろうし道案内はない。その道中にどんな困難や邪魔物があるかまったく分からない。リーダーのモーセだって同様であったであろう。しかし歩き始めたら止まることは許されない。そもそも旅の終わりはいつかさえわからない。一週間ほどで到着するのか、1年かかるのか、あるいはそれ以上かかるのか。結局この度は40年かかった。道中で生まれた世代も半分以上になったであろうが、彼らにとっては何故、何のための「旅」さえも理解できなかったであろう。
今日の聖句は、その「旅」を初めから終わりまで保証するという。
と、ここまでほとんど機械的に書き進めてきて、ハッと気付いた。何だ、これは私たちの人生そのものじゃないか。その意味では今日の聖句には出発の場面が記述されていない。私たちの人生について出発の場面は記述がない。

2018 日々の聖句 9月14日㈮
慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を(立ち向かう者から右の御手をもって)救ってください。(詩17:7)

まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、(彼らをいつまでも)ほうっておかれることがあろうか。(ルカ18:7)

私の黙想:
神を避けどころとする、とはどいうことだろうか?一般の日本人にとっては分かりにくい表現である。もっとも普通のイメージでは、災害などの場合の避難所であろう。避難所での生活は決して正常な状態ではない。だから1日でも早く避難所から出ることを願っている。だから聖書で神を避けどころとするというとき違和感がある。
英国人はマイ・ホームは城であるという。家に帰ってきたら心から寛ぎ安心できる。日本人にホームを「城」と言えるか。ホームより前にハウスの地盤、生活環境に安心できるのか。災害の時自治体から避難所に避難してくださいという呼びかけがあるが、家内と話し合っているのは、この地域においてもっとも安全なところが「我が家だね」と話し合っている。
聖書の民にとって、その時住んでいる場所が「安定」していなかったのではないだろうか。ある意味で「遊牧生活」「テント生活」が極度に理想化されすぎている。
とは言え、政治家たちは現状の不安を煽り、軍事強化しようとしている。それに対しては、「神を信じる」ことが私の「避け所」だと告白する。

2018 日々の聖句 9月15日㈯
麗しさの極みシオンから、神は顕現される。わたしたちの神は来られる。黙してはおられない。(詩50:2~3)

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブル1:2~3)

私の黙想:
「神は顕現される」という言葉に目が留まる。この単語は旧約では7回、新約では皆無である。この単語が聖書協会訳に現れたのは、今回が初めてである。口語訳、新改訳では「光を放たれた」、フランシスコ会訳では「神は光り輝かれた」、岩波訳では「神が輝き出た」で、関根訳では「照り出で給うた」である。
私自身がこの単語に初めて出会ったのは聖公会に移ってからで1月6日が「顕現日」であり、三重県桑名にある聖公会の教会が「桑名エピファニー教会」で、このエピファニーが顕現という意味だと言うことであった。最近ではかなり知れ渡るようになってきたが「顕現」という単語はキリスト者の間でもレア(稀少)な単語である。単語がレアなだけではなく、現象もかなり特殊である。そういう単語を聖書の訳文に用いるのには疑問がある。
訳文としては最後の「黙してはおられない」という文章の主語は誰か。神か、私たちか。口語訳は明らかに「われらの神は来て、もだされない」と訳している。フランシスコ会訳は新共同訳と同様あいまいであるが、それ以外は、神は黙っていないと解している。もっともハッキリしているのは関根訳で「われらの神は出てこられて、黙し給わない」。

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