ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

渡辺善太先生の「回心とその前後」を読み返す

2008-07-10 16:42:17 | ときのまにまに
お袋の信仰生活について、調べているうちに、渡辺善太先生の「回心とその前後」(全集5収録)を読み返すことになった。なかなか面白い。講談で鍛えた渡辺節が踊っている。とうてい、全体を紹介することはできないし、その必要もないであろうが、ただ当時の教会の説教について面白いことを述べているのでノートしておく。渡辺先生のことを知らない人のために、一言補足すると、先生は日本の生んだ神学的ジャイアンツの一人で、その聖書正典論は今でもその生命力を失っていない。また、説教者としても当代随一であった。
神学校に入学前に、キリスト教に反対している父親から生活費が打ち切られ、生活費を得るために、当時最も著名な牧師であった救世軍の山室軍平氏の鞄持ちのようなことをさせてもらい、生活費と神学校入学のための費用を稼いでいた。
「そのうち私は山室さんの『説教の呼吸』を学ぶことができた。いったい山室軍平という人は、私の50年間の経験において、ただ一人の説教者であった。というのは、この人の説教は、上は大学教授から下は無学文盲の街の人まで、大金満家から酒屋の樽拾いまで、総理大臣から村役場の小使まで、どんな人でも一様に感動させないでおかないという説教であった。しかしこの人の説教はどんな人がきいても、反感を感ずるとか、反発するとかいうことの絶対にない説教であった。ことにこの人の実話または引例の適切にして巧みなことは、独特というべきものであった。私はなん回となく、満堂がうたれて、感涙にむせぶありさまを、私の目でみた。実にこんな説教者という者は、一世紀に3人、4人と出るものではあるまい。
私はいつも説教者としての山室さんを思うとき、必ず中田重治さんを連想する。救霊説教者としては、当時中田さんの右に出る者はなかった。神学的説教者や、思想的説教者や、文学的説教者や、社会的説教者は、ほかにあった。それは中田さんの畑ではなかった。しかし救霊説教となると、それは中田さんの独壇場であった。だが中田さんの説教で困ることは、聴衆の中に、必ず幾人か反感をもち、反発を感ずる人が出ることであった。これにはいろいろな原因があったらしい。山室さんは『下から出て』説教したが、中田さんは『上から出て』説教した。山室さんは説教中に皮肉や悪口は忘れても言わなかった。ところが中田さんの説教の中には、社会的に名の知れた人々や、他教会の牧師などに対して、椰楡と皮肉とが、口を突いて出た。そして、それが実に適切きわまるものであった。だから関係のない聴衆には、とてもおもしろくて、思わず爆笑となるのだが、関係者には腹立たしさを感ぜしめるのであった。<中略>この二人の大説教家に近接することができたのは、私の生涯にとって無上のしあわせであった。」(同 62頁)
このほかに、中田重治氏の説教について、こんなことも述べている。
「説教者はなんといっても、中田重治氏だった。その後50年経った今でも、ちょっとあれだけの説教者を多く見ることはでない。説教中彼の口から飛び出す譜ぎゃく、皮肉などは、思わす聴衆をして爆笑せしめることが多かった。
彼の説教は『聴衆を笑わせて、彼らが口を開いたところへ、福音を打ち込む』という話し方だった。笹尾鉄三郎氏(東京聖書学院初代院長)の説教はこれと正反対で、声はいずれかといえば女性的で、話がくどくて聖書の引照が多くて、肩のこる話し方であった。ただ、しかし『コクのある』ということにおいては、そこのいずれの指導者にもまさっていた。」(同 28頁)


最新の画像もっと見る