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エドガー・スノーが見た「北満州(ハルビン、チチハル)」

2016-07-11 11:51:54 | 雑文
エドガー・スノーが見た「北満州(ハルビン、チチハル)」

奉天占領(1931.9.19)に成功した日本軍は、その勢いで北満州にも手を伸ばし、11月19日、ハルビンの先チチハルを占領した。ここでは、スノー氏は状況視察という形の文章でレポートを書いている。(87〜94頁)

1. 北満の情勢視察
ひどい寒さだった。乗っていた列車の廊下でも温度計は零度を示し、車外では突き刺すような寒風が水銀柱を零下20度に下げていた。雪は大きな固い羊皮紙のようになって地上に積もり、その雪原に散在する常緑樹が、まるで永遠の真理のように空高くそびえていた。松花江を渡るときに眺めると、その両岸は固く凍って いた。しかし中流では澄み切ってはいるが寒々した陽光の下を~、雪がうず高く積もった大きな氷塊が銀色になって流れていた。
戦闘に出くわすかもしれないと思って、われわれ6人はハルビンからチチハルに向かうところだった。皆アメリカ人で、これまでも中国の戦争を取材し、非常にうまい文章を書きながら、めったに間違ったことを報道しないシカゴ・トリビューンとマンチェスター・ガーディアンのジョン・ポーエル特派員、いつもニコニコしていて人付き合いのいいニューヨーク・ヘラルド・トリビューンのビクター・キーン、日ソ開戦となれば彼の言う「1億人の読者」のために早速報道しようと、シベリア鉄道経由でベルリンからハルビンまでロシアを越えて6千マイルを駆けつけてきた口髭を生やし、敏腕で知られた「特種屋」のUPヨーロッパ総局長フレデリック・クー、東京から急いでやって来た物知りで口数は少ないが人柄のおだやかなAP極東総局長グレン・バブ、仕車ができて皮肉屋のシカゴ・デイリ-。ニュースのレジナルド・スイートランド、そして私の6人だ。
嫰江付近で数日間問ぜり合いをやった後、多門二郎中将に率いられた日本軍は1931年11月17日未明、決然として総攻撃を開始した。多門部隊に対するのは、小柄な馬占山に率られ、装備は貧弱だが豪胆で、北方のきびしい自然の中で育てられた部隊だった。どこからともなく劇的にあらわれた馬占山は、その軍功により、張学良将軍によって黒竜江省の代理省長に任命されていた。彼は世界に向かって「わが部Tたちは、最後の一兵にいたるまで戦う」と豪語していた。彼のチチハル防衛が、北満州における中国政府の唯一の組織的抵抗だった。
11月18日、馬将軍からハルビンヘ無線連絡が入った。これは南京でまだ国民政府の「大統領」の地位にあつた蒋介石将軍に伝えられた。
その悲痛な電文はつぎの通り。「今日本軍は装甲車と6機の大型爆撃機を先頭に大攻撃を開始した。戦況は緊迫している。戦闘行為を中止するよう国際連盟に提訴されたい」。
実際に蒋介石はジュネーブ駐在の中国代表施肇基博士に連盟の介入を求めよと電報したが、以前と同じょうに今回もその努力は空しかった。吹雪の中を北方ヘ進んでいた多門は、両耳を厚い毛皮の帽子でふさいでいたので、スイスからの波長は決して彼にとどかなかった。
私たちが前線ヘ向かう列車に乗りこんだ19日正午には、日本軍はすでに塹壕から敵兵を追い散らしていた。馬将軍の部下は総くずれで敗走しているとのことだった。しかし東支鉄道の上のほうで激戦がつづいているので、私たちは何とかその一部を見たいと思った。
広軌の東支鉄道にのって私たちが走ったこの土地は、大興安嶺と小興安嶺山脈のすそにひろがる広い平野と渓谷の一部だった。北方と北西方は中国領満州とソ連領シベリアを分ける自然の境界になっている。黒竜江省の大部分は今も森林に覆われ、豊かな可耕地の6分の1も開墾されていない。省はモンゴルにまたがるバルガ準自治区を含めて21万平方マイルにひろがり、中央アメリカのすべての国を足した面積よりも広い。
それは数世紀前には満州の原住民族である西ツングース族の原始的な生国だった。戦闘的な金帳汗国もここから興った。同じように種々のタタール族、モンゴル族、ハンチユン族、満州族など偉大な征服部族も、初期にはここで狩猟地の領分を主張していた。時代がうつるとともに、絶え間なく農耕民族の中国人のより持続的な影響力が入ってきて、ゆるやかな雪崩のように徐々に狩猟民族や遊牧民族の上におしよせ、ついに彼らを征服してしまった。
17世紀になると進取的な中国農民たちは、黒竜江省内に小規模ながらいくつかの農耕地をつくりあげていた。18世紀には彼らの伝統、文化、習慣や言語までがひろく行われるようになった。19世紀末ごろになると満州政府の援助奨励のもとに移民してきて、もっとも肥えた土地を開墾し、定着するようになった。彼らは土地の潜在資源を引き出し、輸出品を生産し、輸入品に対する市場を形成した。
彼らは満州人によってつくられた軍事目的のための辺境集積所を商業盛んな都市に変えた。彼らは先祖伝来の放浪生活の自由さをまだ愛している諸部族の人たちをしり目に、経済的優位、のちには政治的優位をも獲得した。
今世紀になってから黒竜江省の中国人人口は4倍にふえた。現在は約600万人に達し、中国の他の省にくらべると、まだ人口希薄といえるが、滅びゆく種族のわずかな生存者の上に、圧倒的多数の優位を誇っている。滅びゆく穂族の人たちも、中国人の血がほとんど混っていないにもかかわらず、かなり中国化されてしまった。
広大な原野はまだ処女地だったが、長城の南からやってきた新しい開拓者たちは、なんとか経済的独立をえようと必死になって働いた。 中国人の役人や軍人が可耕地のたっぶり3分の1をもっていて、その土地は人「官有地」とよばれた。残りの約半分、つまりま全体の3分の1はそっくり封建制度の形のままで地主と高利貸しがにぎっていた。
田畑で働いている者のうち80%以上が小作農である。毎年50万人ずつ北満州ヘやって来た南方からの勤勉な農業移民は、大地主や小役人相手の交渉をよぎなくされ、きわめてひどい条件を押しつけられた。税金は略奪に近く、小作料は不当に高く、借金はすべて高利だった。ゆたかな土地に住む何100万の間に、悲惨な貧困がひるがるという皮肉な現象があった。
体がもっとも丈夫でも、とも忍耐強い者だけが、この長い絶望的なたたかいに生き残ることができる。途中で諦めて中国へ帰って行く者もある。満州にとどまってはいるが、平地を捨てて山ヘこもり、馬賊の仲間に入る者もいる。その他の者は兵隊になる。だが馬賊になった者も兵隊になった者も、もとの土地へ戻る習憤がある。きちんと半年間は放浪者として、あとの半年問は農民として暮らす。彼の社会は、そのつど何でもなかったように彼を迎え入れる。満州の奥地では兵隊にしろ馬賊にしろ、中国のほかのところではみとめられない社会的地位を得ている。
馬占山将軍はこのようなあまり当てにならない連中から、日本軍の前進に挑戦する灰色の服をきた軍隊をつくりあげた。中国軍にまじって、昔ながらの冒険好きの気性をもつモンゴル・プリアート族、ソロン族、金族や数100人のタタール族もいた。
馬将軍自身にも原住民族の血がまじっていた。彼は農民のせがれとして無学文盲、その土地以外のことはほとんど何も知らずに育った。だが彼は勇気と野心と知恵を持っていた。これらの助けをかりて、彼の一生も張作霖と同じ道を行くはずだったのかも知れない。張と同じく彼の人生への出発は、ジェッシー・ジェイムス(アメリカ西部の義賊)に似ていた。アメリカのコラムニストの苦し紛れの語呂合わせの的になったこの小柄な将軍の名前は、奇しくもその背景を物語っている。馬は中国語でウマを、占山は文字通りに「山岳を占拠する」 事を意味する。ユーモアを解する日本人たちは、彼の名を意訳して、「山に住み、馬に乗る男」と言った。満州ではそれはほぼ「馬賊」と同じ意味である。

2.日本軍の戦いの跡
私たちの一行が昂昂渓に着く前に、日本軍はこの町を迂回してチチハルに向かっているとの知らせが入った。主要な戦闘場面はみられなかったが、その名残を追うことが出来るはずだ。昂昂渓駅に着くと、大勢の避難民の群れが集まっていて、鉄道警備兵の保護を求めたり、ハルビンへ運ばれるのをまったりしていた。
彼らはほとんど土地の農民ばかりだったが、中には一群のロシア人や、毛皮の襟のついた外套を着ておびえきった表情の中国商人たちもまじっていた。大急ぎで逃げ出したため、ちゃんとした服を着ていない者もいた。彼らは綿入れや羊の皮の寝巻を着ていた。凍てついた雪の上のあちらこちらに子どもたちがはだしで立っていたが、だれも泣こうともしなかった。群集の中には薄い絹をまとっただけで、なめしてないブタ皮をかぶせたトランクに腰かけてふるえている4~5人の香水の句いのする歌い女もいた。
待合室の床には負傷した中国兵をのせた担荷が何列にもならんでいた。そのまわりの群集はもの珍しそうに眺めていたが、 その顔はあまり感情を示して いなかった。 兵士たちの大部分は嫰江で撃たれた乗馬の兵たちで、背が高くて色が浅黒かった。羊の皮の裏をつけた彼らの長いとがった帽子には、中国の紋章である白い星の上に銀の太陽がついていた。顔の半分をやられたり、手足を失っているものもいたが、だれも痛みを訴えなかった。痛みを消すために多くの者が麻薬を与えられていたのではないかと思う。
昂昂渓で列車をおりて先へ進むと、まもなくもっと恐ろしい戦争の証拠をつきつけられた。チチハルヘの路上には中国軍の軍帽、鉄かぶと、弾薬帯、迫撃砲弾の薬莢などが散らばっていた。車輪がとれてしまった自動車が数台あって、中の1台はエンジン覆いをやられて穴があいていた。1台の装甲車があって、中に2人の兵士が乗っているのが分かったので、質問しようと思って車をとめた。答えはなかった。近よってよく見ると2人と銃剣で刺されて死んでいた。
進むにしたがって無数の中国兵の死体がこるがっていた。ある者はめった斬りにされ、他の者は線路のそばに高く積み重ねた豆粕のように固く凍っていた。あわてて敗走した中国軍が遣棄したこれらの死体を、どこからかあらわれた狼が食い荒していた。首を食いちぎられた胴体や、皮をはがされた手足があちらこちらに散らばっていた。戦闘のあとを示すこの情景の中に、内臓を露出したモンゴル馬の凍った死体があった。奇妙なことにはそれを見ていると、そばに横たわっている兵隊の死体よりももっと悲哀感をそそるのだった。爆弾の落ちた穴が田畑にあばたをつくってい て、そのそばに半焼けになったり、弾丸で切り裂かれたりした死体がころがっていた。空の弾薬帯を投げ出して道路上に横たわっていた一死体をみると、榴霰弾で首を吹きとばされていた。
日本軍はチチハル入城めざして雪原を進軍中だった。負傷者もその中にまじっていた。大勢の者が凍傷の足をひきずり、ある者は戦友の背中に負われていた。彼らは日本の最精鋭部隊だったが、何といっても暖かい稲作地帯から来ており、その血は薄かった。それまで毎日入っていた熱い風呂をなつかしがっていた。チチハル作戦の際の日本の傷病兵は700人あまり、そのうち半分以上は凍傷患者で、後に55人が死亡したと報告されている。
だが散開して行進している後衛部隊は警戒をきびしくしているようだった。中国、モンゴル混成の乗馬隊がまだその辺に出没していた。そして日本人は島国の人間の自分た ちが地上で撃つよりも、馬に乗ったままもっと正確に射撃する北方民族に一目置くべきことを知っていた。
チチハルに入ってからも、時々板を打ちつけた戸口の背後から撃ってくる粗撃兵を警戒して、部隊は注意深く前進した。600年の歴史をもつというこの城壁都市は、人々が逃げ去って無人のようにみえたが、バリケードを築いた店や家の玄関のすき間から、何千という現地住民の目がのぞいていた。舗道ではただ日本軍の重い靴音がひびいていた。
南満州鉄道の堂々たる建物に司令部をおいた多門中将は、ていねいなお辞儀をして息を吸いこみ、サムライの徹笑を浮かべてビクター・キーンとわたしを迎えてくれた。そこら中に地図がある部屋で出されたこはく色の茶は上等だったが、たが、煙草はひどいものだった。彼はひどくく上きげんだった。戦闘は勝利に終わり、馬占山はシベリア国境に向けて敗走中だった。北満州に進攻した日本軍の最初の指揮官として、多門中将は日本と朝鮮を併せたほどの新しい国土の征服の基礎を築いたのである。
この多門という男は5フィート足らずの小柄で、その大きな長靴が身体の半分くらいに見えた。眼鏡を掛けて教授風の顔つきをしていた。一見柔和そうだが、その細い目は鋭く光っていた。司令部付の通訳を通じて、彼は早口にしかも一語一語正確に話し、自分の勝利の重要さを謙遜に控えめに語った。
「中国は機関銃、迫撃砲それに数門の旧式の野砲をもっていたに過ぎない」と彼は言った。
「中国軍の士気は低く、訓練も不足していた。このような条件を考慮に入れると、彼らはよく戦ったと言える。我が軍には野砲、曲射砲、航空機、装甲車、戦車および風紀厳正では近代戦闘の訓練を受けた部隊があった。我が方の勝利の原因は訓練、装備、士気が敵よりも優れていたことにある」。
多門中将は馬将軍に対して賞賛の言葉を吐いた。利益の多い降伏の道を選ばずに、負けると決まっているにもかかわらず、敢然と戦った中国人を見て、彼は意外に思っているようだった。馬は日本軍の申し出を受け入れれば、財産と地位を手に入れることもできたのだった。「彼は勇敢だが軽率な男のようだ」と多門中将は言った。このことばを覚えていたわたしは、あとで『満州日報』に載ったはったり屋の浜村の真に迫った嫰江戦況記事をみて吹きだした。その見出しは紙面の半分くらいにわたって大きな黒い活字で出ていた。
  <空威張りの馬、首に一撃をくらう
     虚勢を張る男はいつも真先に逃げ出す>
その後の交渉で、本庄中将がつくりあげたおとぎの国の政府の軍政部総長に一時馬占山が任命されたので、あわれな浜村はその態度を多少変えねばならなかった。
「国際連盟に対してどう考えますか」とキーンは勝利将軍にたずねた。
風雪にさらされた彼の表情を徴笑が横切った。「連盟だって?」 ヨーロツパのおしやベり紳士たちは、ここの現況をどれだけ知っているというのか。われわれが満州で平和と秩序を築きあげようとしているのに、彼らが日本軍の行動を規制しようと試みるのはばかげている。彼らのやっていることには全くうざりする」。
だが何よりも多門中将が誇りに思っていたのは、東支鉄道の向こう側に日章旗を進めたことだった。彼はソ連「勢力圏」の心臓部ヘ進攻したにもかかわらず、ソ連側からなんの反撃も受けなかったのである。馬将軍の防衛戦にソ連が参加していると本庄中将の幕僚たちが前に言っていたのは、事実無根だと彼は言いたかったのだ。
「われわれの邪鹿をするどころか、ロシア人は大変物分かりがよいところをみせた」と彼は言い切った。「馬に対してソ連援助があったというのは事実ではない。われわれは馬の部隊にロシア人を見かけなかったし、ロシアの援助や指導があったという兆候もみなかった。われわれが馬の部隊からソ連将校を捕えたという話はうそだ。われわれに対してソ連製の高射砲が使われたという事実はない。中国軍は高射砲をもっていなかった」。もはやこんな虚報をまき散らす必要はないので、多門中将は愉快そうにそれを否定した。危機は無事切り抜けられたのである。北満州でソ連は日本の暴力に対して少なくとも今のところは、暴力で対抗しないことがはっきリしたのである。まずいことには日本の外務省は、奉天からきた虚報を循じこんでいたらしく、ソ連が中国軍を援助していると激しい調子で抗議した覚書を数日前にモスクワへ送っていた。それに対してカハラン人民委員(ソ連における行政執行機関の職名。1946年から大臣と改称) からただちに痛烈な返事がきた。それはつぎのように結諭している。
「日本政府は、チチハルの中国軍および満州の他の省の軍隊にソ連教官(顧問)が配属されていないこと、それらの軍隊が過去も現在もソ連から武器弾薬を供与されていないこと、ソ連は満州において係争中のいずれの側に対しても援助していないことを知られたい。
ソ連政府が中国問題に関して厳密な不干渉政策を堅持し ているのは、その政策がいずれかの国の利益あるいは不利益になるからではない。ソ連が不干渉政策を堅持するのは、中国と締結した国際条約を尊重し、他国の主権と独立を尊重し、かついわゆる援助の名目で行われる軍事占領政策は ソ連の平和政策および世界平和の維持と両立しえないと考えるからである・・・・・・」。
束京政府にとってこれは耳の痛い話だった。日本の軍部は今度もまた外務省をこけにしたのである。

註:これで日本軍は長城以北の満州全域をほぼ制圧したことになる。

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