ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:「見る」ということ 降誕後第1主日に基づいて

2015-12-27 11:20:16 | 説教
降誕後第1主日
断想:「見る」ということ わたしたちはその栄光を見た  ヨハネ1:1~18

1. 降誕後第1主日の意味

降誕日の福音書はヨハネ福音書の1:1~14が第1選択で、ルカ2:1~20が第2選択という形になっている。これらは両方ともとクリスマス・シーズンではなじみ深いテキストである。そして降誕後第1主日ではもう一度、ヨハネ福音書1:1~14に15~18節が追加されて読むことになる。このことはこのテキストを選んで説教をする場合なかなか興味深いことである。15~18節を中心として取り上げるべきか、この箇所全体を取り上げるべきか。もっとも聖書のテキストのこだわらない説教者にとってはどうでもいいことかも知れないが、私にとってはなかなか興味深い。そのことは同時に降誕後第1主日を降誕日との関係をどう捉えるのかということとも深く関係している。
端的に結論だけを言うと、降誕日とは出来事そのものを中心とする祭である。それに対して降誕日の次の主日は御子の降誕という出来事に対する私たちの関係、あるいは反省である。本日のテキストに当てはめると14節の前半と後半との関係である。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事に対して、「わたしたちはその栄光を見た」(14節前半)と告白し、見た内容を「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節後半)と報告し、証しする。それが降誕後第1主日の意味である。
従ってどちらかというと、説教者としての立場としては降誕日よりも降誕後第1主日の方に力が入る。ところが非常に残念なことであるが、クリスマスと正月の間にある降誕後第1主日はしばしば勝負が決まってしまった後の消化試合のような感じで受け止められているきらいがある。

2. 私たちはその栄光を見た

「言葉は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と告白し証言するのがこの主日の課題である。このことは建前とか、付き合いでは済まされないない重要な事柄が含まれている。見たのに見ていないとは言えないし、見ていないのに見たとも言えない。これは法廷での証言にも等しい事柄である。偽証はできない。見たのですか、見ていないのですか。
「見る」ということを重視する著者は、「見えない」ということも重視する。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。この「見えない」があって、初めて「見える」が成立する。しかし、今わたしたちは皆、神を見た。御子イエス・キリストを通して神を見た。
最初にイエスの弟子になった2人の男はもともと洗礼者ヨハネの弟子であった。彼ら2人にヨハネはイエスを指さし「見よ、神の小羊だ」と紹介した。そこで2人の男は何も言わず、ただイエスに従った。後をついてくる2人にイエスは「何を求めているのか」と尋ねた。2人はイエス「どこに泊まっておられるのですか」と質問した。その時イエスはただ「来なさい。そうすれば分かる」と答えた。ただそれだけの会話で彼らはイエスの寝食の場をみて、ただそれだけイエスの弟子になり寝食を共にするようになった。
この弟子たちが友人に出会った時、「来て、見なさい」(1:46)と言った。その友人ナタナエルはイエスを見てイエスの弟子になった。そのナタナエルにイエスは、弟子になったら経験することとして、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(1:51)と語られた。またニコデモとの会話の中でイエスは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(3:11)という言葉を残している。またパンの奇跡においては「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(6:14)とされる。

3. 「見える」、「見えない」

ヨハネ福音書の9章に、「見える」、「見えない」ということをめぐっての面白い議論がある。生まれつき目の見えない人がイエスによって見えるようになった。人々はこの奇跡を目の前で見た。ところが肝心の本人はこの奇跡のプロセスを見ていない。シロアムの池にいって目を洗えと言われてその通りにしたのである。その間にその人はどこかに行ってしまった。だから命じた人を見ていない。そこからいろいろなことが問題になる。命じたイエスとは誰か、何者か。おそらく法廷が開かれて訊問されたのであろう。癒された男もこの質問に答えられない。彼が言えることは見えなかったのに見えるようになったという事実だけである。男の両親も呼び出されて訊問される。両親も何も言えない。
結局、ユダヤ人たちは盲人が見えるようになったという事実そのものをなかったこととして一件落着である。これもおかしなことで要するに「見なかったこととしよう」という典型的な権力者たちの手法である。ところが話はこれで終わらない。イエスはこの男が法廷から放免されたということを聞き、彼の元を訪ね、「わたしがあなたの目を癒した男だ」と言う。彼は直ちに信じる。その時、イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(ヨハネ9:39)と語る。そのイエスの言葉を側で聞いていたファリサイ派の人々は腹を立て、「我々は見えないというのか」と言う。彼らに対して、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9:41)とイエスは語られた。最後の部分は議論と言うよりもむしろ喧嘩に近い会話となっているが、これがヨハネ福音書の重要なメッセージである。

4. 「見た」ということ

わたしたちが「その栄光を見た」というとき、何をどう見たのか。生まれながらのこの盲人が見えるようになったと言う時、何を、どう見たのか。ユダヤ人たちが目の前で見ているのに、「見ないことにしておこう」というのは、何を見ないことにしたのか。私たちはクリスマスにおいて何を見たのか。そこで見たという「栄光」とは何か。問いたいと思う。私たちは一体、何を見たのか。クリスマスに限らない。私たちが教会に来て、礼拝に出席して何を目にしたのか。これが問題である。
私が見るという場合、肉眼で見るのである。見えるのはあくまでも目の前の現象である。ところが、ここで「見た」とされる神の言葉(ロゴス)とか、永遠の光は肉眼の対象にはなり得ない。弟子たちは肉眼で肉体であるイエスを見ることを通して肉眼では見えないものを「見た」。もし神のロゴスが肉体をとってこの世に現れなければ、私たちは永遠に神のロゴスを見ることができなかったであろう。
洗礼者ヨハネはイエスを見て、「わたしは、『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と証言をしている。その時イエスの姿はその場にいた人ならば誰でも見えたに違いない。ところがヨハネだけが人びとに見えない出来事を見ていた。なぜ、そういうことが起こるのか。
最初にイエスの弟子になった2人の男はもともと洗礼者ヨハネの弟子であった。彼ら2人にヨハネはイエスを指さし「見よ、神の小羊だ」と紹介した。そこで2人の男は何も言わず、ただイエスに従った。後をついてくる2人にイエスは「何を求めているのか」と尋ねた。2人はイエスに「どこに泊まっておられるのですか」と質問した。その時イエスはただ「来なさい。そうすれば分かる」と答えた。ただそれだけの会話である。ただそれだけの会話で2人はイエスの居場所を見て弟子になり寝食を共にするようになった。この2人はそれぞれ友人たちに「来て、見なさい」とだけ語りイエスの弟子なることを勧める。ヨハネ福音書は最も肝心なことについては「来て、見なさい」としか言わない。イエスも「来なさい。そうすれば分かる」としか言わない。そしていきなり「信じるか」と問う。

5. 「見る」を成り立たせる証言

さて私たちが日常経験する「見る」という行為は、「見る者」と「見られるもの」との関係である。「見る者」は見ているものについてのある程度の理解(前理解)がなくては、「見る」という行為すら成立しないし、見ていても、すぐ忘れてしまうし、見たという経験として残らない。ただボーッと眺めていたにすぎない。それは決して「見る」という行為ではない。その場にいたすべての人に見えなかったのに、なぜ洗礼者ヨハネには見えたのか。ここに一つの重要な秘密がある。ヨハネがそれをどこから得たのか分からないが、ともかく彼には一つの強烈な予感(前理解)があった。それを示している言葉が1:33である。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」。ヨハネは、そしてヨハネだけがあらかじめこの言葉を聞いていた。従っていろいろな人々との出会いの中、常にこの人がその人なのかという見方をしていたのであろう。だからこそ誰も気が付かないことにも気付く。彼がいつ、どういう場面でイエスをであったのか福音書は語らない。ただ、洗礼者ヨハネは「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:34)。その予感通り、ヨハネは「見た」。だから証人になった。見た人が証人になる。ヨハネの証言を聞いて信じた人びとはイエスにおいて神のロゴスを見た。ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネを「証しをするために来た」(1:6)人とする。ここがほかの福音書と異なる点である。ヨハネ福音書においては信仰に至る道において、この証言(=前理解)ということが決定的な意味を持つものとして語られている。

6. 「見ないで信じる」
見るということと信じるということとの関係において証言(=前理解)のもつ意味は重要である。そのことを端的に示しているエピソードがヨハネ福音書の最後に記録されている。例の疑い深いトマスのエピソードである。
復活のイエスが弟子たちに始めて現れたときに、トマスはそこに居あわせなかった。トマス以外の10人の弟子たちは「イエスを見た」。それで他の弟子たちから「私たちは主を見た」と言われたとき、彼はそれを信じなかった。2回目にイエスが現れたときに、トマスは直ちに信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。その時、主イエスはトマスに言った、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」である。この言葉が「わたしたちは見た」(1:14)という言葉で始まったヨハネ福音書の結論であり、最後の締めくくり言葉であり、後代の人びとへの重要なメッセージである。
使徒時代以後、イエスの姿を見た者はいない。それは当然である。イエスの肉体がない以上、肉眼ではイエスを見ることはできない。しかし、私たちには教会がある。そこに信徒の交わりがある。その交わりの中に主イエスは生きている。その意味では私たちは信徒の交わりを通してイエスを見る。

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