ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(8) 長春から新京へ

2008-05-18 19:35:30 | 旧満州の思い出
旧満州の歴史を語り出すと切りがない。いつかは、わたしなりに批判的に整理はしておきたいと思うが、現時点では旧満州で生まれ10歳までそこで生きた者として、思い出の範囲で気付いたことだけを整理しておく。
1932年3月1日に、満州国政府は建国宣言を発表して、中国から分離独立して国家として成立した。年号は「大同」、「新五色旗」を国旗として布告された。そして、吉林省の省都「長春」を「新京」と改めて、首都とされた。長春は満州地域でも北の辺境に近く、南満州鉄道(いわゆる「満鉄」)で言っても北の終点駅で、ここから北の鉄路はロシアの管轄であった。
それまでの満州の中心地は「奉天」で、清王朝(満州族)が支配していた頃は、「盛京」と呼ばれていたが、清王朝が全中国を制圧してからは、首都を北京に移し、「奉天」と改名された。「奉天」という意味は、「天を奉じて皇帝になった」という意味で、清王朝にとってはいわば聖地とされた。清王朝が倒されて後は、「奉天」という清王朝にまつわる名前は相応しくないということで、「瀋陽」に改められていた。日本の関東軍が全満州を占領してからは、もとの「奉天」という名前に戻されていた。当然、満州国が成立した時点では、奉天が首都になるものと思われていたらしいが、奉天には満州事変以前のこの地の支配者であった張作霖、張学良が勢力を保持していたため、首都として長春が選ばれたのであった。
その頃の新京市の人口は約10万人といわれ、都市としての形態はほとんどなかったものと思われる。いわば白紙の上にまったく新しい都市を造るという大プロジェクトが急ピッチで進められた。新京市の特徴は、その都市計画にあった。最終目標人口は300万人、とりあえず50万都市を20年で建設する、というのが当初の計画であった。居住地域、商業市域、工業市域を明確に分離し、建造物はすべて許可制で、モニュメント類を除き、20メートル以上の建物は禁止された。日本人居住地域では、宅地面積は、1戸あたり260坪、233坪、133坪、103坪の4段階に分けられ、しかも居住地域の人口密度は宅地の広い順に、1平方キロにつき4千人、1万人、1万2千人と定められた。今から思い出すと、わたしたちが住んでいた官舎は、この4段階の内、最も狭いところであったと思う。



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