ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/11/29~11/22

2014-11-30 06:00:33 | ローズンゲン


2014日々の聖句 11月23日(日)
主なる神よ、まことにあなたは大いなる方、あなたに比べられるものはなく、あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません。(サムエル下7:22)
恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きている。(黙示録1:17~18)
私の黙想:
サムエル前後書通してもっとも重要な場面を含む。ダビデ王朝の確立と平和の実現、ダビデはヤハウエの家(神殿)の建築を決意するが、ヤハウエから逆にダビデ家(王権)の確立を約束される。本日の聖句は、それに対するダビデの感謝の言葉である。ヤハウエ以外にヤハウエのような偉大な神が他にあるか。そんな神は他には絶対にない。少々大げさな表現ではあるが、そう信じているからこそ神に対する絶対的な信頼がある。神を相対化して議論したり、考えたりすることはできない。もし、それができるならば、それはもはや神ではない。ダビデの祖々母、ルツは異邦の民出身であった。しかし、夫が死んだ時、姑から「自分の民、自分の神のもとに帰れ」と奨められた時、ルツはその申し出を拒否し、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです」(ルツ1:16)。ルツは義母ナオミとともに夫の民のもとに身を寄せ、再婚し、子どもオベドを生む。ナオミはオベドを実の子のように可愛がり、育てる。このオベドの孫がダビデである。だからこそ、ダビデの今日の言葉は重い。「あなた以外に神があるとは耳にしたこともありません」。この一言にダビデを育てた家の伝統を感じる。

2014日々の聖句 11月24日(月)
すべて神の業は永遠に不変であり付け加えることも除くことも許されない。(コヘレト3:14)
預言者ヨハネの言葉:天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来た。(黙示録14:6)
私の黙想:
「許されない」とは「付け加えることも、除くことも不可能なほど完璧だ」という意味であろう。人間は全て与えられたもので満足し、その中で生きる。創造神信仰とはそういうことである。生きるために必要な物は全て完璧に与えられている。変な言い方であるが、必要なのにないものはない。もし必要でもないのに与えられているものがあったとしたら、(それは論理的にはあり得ることであるが)、それは不要だからといって、除いてはならない。それが必要か不必要かは創造者が決めることであって人間が決めることではない。現実に(神話としての現実)にそんなものがあるのだろうか。ある、ある。あった。生きるためには必要でもないのに、余分なものが一つだけあった。いくら考えても何故そんなものが存在するのかわからないものが一つだけあった。なぜ神さまはそんなものをエデンの園の、しかも真ん中にそんなものを置いたのか、わからん。人間は分からんことがあると気になる。気になる度合いが日毎に大きくなる。余分なものは取り除けばいいと考えるようになる。その前に、本当にそれは不要物なのか調べる必要がある。かくして、アダムとエバは園の中央にある「知恵の木」に手を付け、その実を食べてしまった。

2014日々の聖句 11月25日(火)
御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。(哀歌1:20)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18:13)
私の黙想:
預言者エレミヤの「哀歌」と言われている。「哀歌」の意味は悲しみ嘆く歌でエレミヤの作というより、エレミヤの立場に身をおいてバビロンによるエルサレムの崩壊を歌った文学作品であろう。全体は5つの歌になっている。ここでの「わたし」はエレミヤ自身のことであるが、実はエレミヤは主に「背いてはいない」。従ってここではイスラエル全体に対する嘆きを「自分の嘆き」として述べている。むしろエレミヤは自分自身の力不足を嘆いている。
「背きに背いたのです」を口語訳では「はなはだしくそむいたからです」と訳している。フランシスコ会訳では「本当に不従順だったのです」、新改訳は「逆らい続けた」。これはエレミヤ自身の「背かれた」実経験を背景にしている。ここで重要なポイントは、だから彼らが滅びたのは彼ら自身の責任だと言わずに、自分の責任として負っているという点である。民の不従順は預言者の責任、民の「罰」を自らへの「罰」として受け止める。これはまさに預言者ヨナの「嘆き、怒り」と逆の姿勢である。ヨナの場合は預言者の言葉に従って悔い改めた民を神は赦し、民は罰を免れた。そのことにヨナは憤っている。面白い対比である。旧約聖書における「預言者」の立場というものは仲々含蓄がある。

2014日々の聖句 11月26日(水)
主よ、もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。(士師記6:17)
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
私の黙想:ギデオン物語の一つの山場。神の召命に対する「しるし」の要求。神の召命という「神と私とだけ」といういわば秘密の出来事が主観的でないということについての客観的証拠を求める。もう少し広く捉えるなら、信仰の主観性を克服する客観的しるしを求める。間違ってはならないのは、神であるかどうかという「しるし」ではないという点である。そのしるしは「私自身のため」でもあるし「他者のため」でもある。
人はどのようにして「聖職者」になるのか。最も深いところでは「神の召命」があるし、なければならない。それが召命感である。これをベルーフと解すると全ての職業にもベルーフがあるということになるが、とくに聖職者にはそれがなくてはやっていけるものではない。しかしその召命感には常に主観的思い込みという危うさが伴っている。それを克服するために「聖職試験」がある。ここに「人間的アヤマチ」が入り込む危険性がある。

2014日々の聖句 11月27日(木)
主はソロモンに言った。「何事でも願うがよい。」ソロモンは答えた。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断し、この僕に聞き分ける心をお与えください。」(列王記上3:5,9)
怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。(1テサロニケ5:14)
私の黙想:
口語訳では 「あなたに何を与えようか、求めなさい」。フランシスコ会訳では「お前に何を与えようか。言ってみよ」。新改訳はもっと明確に「あなたに何を与えようか。願え」。この主の言葉はソロモンが主に千頭の牛を祭壇に捧げたことへのお返しであった。多くの場合、こっちの方んことをあまり強調しない。千頭の牛を殺して、切り刻み、祭壇に乗せて焼く。想像を絶する情景である。さすがにソロモン王、凄いことをする。それを見ていた国民はどう思ったことだろう。馬鹿げたことを思っただろうか。王様は気が狂ったと思っただろうか。しかし国民は冷静で賢いソロモン王の普段を見ている。
神への捧げ物は思い切ってする。神への供え物はケチってはならない。神はそれに応えたのが今日の聖句である。それに答えたソロモン王の願いがまた凄い。その凄さは王としての本質を突く。王が求めたのは「富国強兵」ではなかった。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断し、この僕に聞き分ける心をお与えください」。まさに立法、司法、行政を統括する「心」であった。そして神はそれらをソロモンに与えられた。しかし、晩年のソロモン王は傲慢になり、気が狂い、それらを「富国強兵」政策に転換してしまった。

2014日々の聖句 11月28日(金)
イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる。(エレミヤ31:10)
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(ロマ11:29)
私の黙想:
まずい訳だ。「彼」という代名詞の使い方が不親切。口語訳では「これを」という代名詞を使って「イスラエル」を指してくこと明示している。フランシスコ会訳では代名詞を使わないで「イスラエル」と明示している。要するに、イスラエルを散らした方は(再び)イスラエルを集めるという文章である。この章全体が捕囚からの帰還の喜びを歌っている。「散らし、集める」という全てのプロセスはヤハウエによる。解体と再結集。再結集された集団は解体前の集団とは同一でありつつ、同一ではない。否、同一でないことが期待されている。そこに「新しさ」が期待されている。古い民は解体されるが、新しい民として生まれる。出エジプトという出来事を通して「再結集」されたイスラエルはもはや「奴隷の民」ではない。
十字架の出来事を通して「散らされた弟子集団」は復活を通して「教会」として再結集された。教会の成長は「日々の改良」によって起こるのではなく、解体と再結集によって起こる。つまり、それが「革命」である。その意味では聖書の神は「短気な神」である。その短気さの中に「神の忍耐」を信じる。

2014日々の聖句 11月29日(土)
ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には実を結ぶ。(列王記下19:30)
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、……エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。(マタイ1:12~16)
私の黙想:
「ユダの家」とは南のユダ王国を意味し、ここでの「難」とはバビロン捕囚を意味する。ここで鍵となる言葉は「残った者たち」である。時代的に言うと少し複雑である。ここでの文脈はアッシリア軍は北のイスラエル王国をあっさりと滅ぼし、その勢いをかって南のユダにまで攻め入ろうとしている。南のユダ王国のヒゼキア王はそれを恐れて預言者イザヤに相談する。イザヤはヤハウエからの託宣としてアッシリアはそのうち撤退するであろうから、心配するなと言う(28節)。その関連でユダ王国の運命を預言したのが今日の聖句である。この聖句での「残った者」とはアッシリアのイエルサレム攻撃における「残った者」ではあるが、内容的には、それから約200年後のバビロンによるエルサレムの滅亡、バビロン捕囚、そこからの帰還における「残った者」を意味していると思われる。チョトと時代錯誤があるのかもしれない。
旧約聖書における「残った者」の思想は非常に重要である。「残った者」が次の時代を作る。その意味で今日の聖句は「残った者」の思想を最も端的に述べている。
初期の教会において異邦人問題が重要課題となった時、使徒会議が開催され、その時ペトロが立ち上がって、神は異邦人の中でも働いておられると演説し、それを受けた主の兄弟ヤコブが次のように宣言する。ここは非常に重要なところであるので少々長いが全文を引用する。
「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』」(使徒言行録15:13~18)。
要は、こういうことである。つまり、異邦人を教会のメンバーとして受け入れるに際して、ユダヤ人における「残れる者」の思想を引き合いに出しているということである。ヤコブとしたらユダヤ人社会において私たちは「残れる者」なんだという自覚があったということである。
ユダヤ人という人種は面倒くさい人種なんだ。

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