ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今山大師――日本一の大師像――

2009-05-31 21:29:00 | ときのまにまに
延岡の礼拝の後で、日本一と称せられる弘法大師像を見てきた。山の上に立つ大師像は美事であった。
ここでは「今山大師」と呼ばれる。
1839年(天保10年)、延岡の地に悪病が流行り、多くの犠牲者が出た。その時、延岡城下の真言宗の信徒(大師信徒)たちが高野山の金剛峰寺(こんごうぶじ)まで行き、弘法大師座像(現在の本尊)を勧請(かんじょう)して「家内安全」、「息災延命」、「五穀豊穣」、「商工発展」の祈願のために巨大な大師像を建立したとされる。高さ17m、重さ11トンで「日本一」と言われている。毎年、4月の第3週の週末には「今山大師祭」が開催され、近郷近在はもちろん遠く県内外の人々が集まり、全市をあげて祭り一色のにぎわいになるとのことである。

        

大きな弘法大師像を見ながら、わたしは考えた。天に聳える弘法大師の姿は、仏教のお寺に見られる仏像とは異なり、明らかに旅人の姿をしている。弘法大師(空海)は神ではなく、人間である。キリスト教的に言えば、全国各地を歩き廻り仏教の教えを語り、病人のために祈り、貧しい地域においては何らかの福祉的な事業を行った宗教家である。にもかかわらず、そんなことは百も承知のえ上で、弘法大師を神として礼拝する。どうなっているのだろうか。
一般の日本人はそんなことは問題にしならないらしい。こんなことを考えるのはキリスト者であるものの「変なところ」なのであろう。
使徒言行録に、パウロがリストラの町で彼の活躍を見て、人々は「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところへお降りになった」と言って、パウロを神として拝もうとした。もちろん、パウロはそれを強く否定したが、人間にはそういう思考回路もあるのではないか。それを否定してしまったところに、キリスト教は三位一体という解決不能の問題を抱え込んでしまったのではなかろうか。その意味では、議論しなくてもいい議論を繰り返しているのではなかろうか。というような「異端的発想」にわたしは悩んでいる。イエスを神とする信仰か、イエスに見倣い、イエスの宗教を受け継ぐ信仰か。神という観念にしろ、拝むという行為にせよ、もっと広く、おおらかに理解してもいいのではなかろうか。キリスト教の伝統においては、聖人という考え方がそれを補っているのかもしれない。この問題については、もう少し、悩まして欲しい。

        

最新の画像もっと見る