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断想:降誕後第1主日 (2017.12.31)

2017-12-29 10:58:29 | 説教
断想:降誕後第1主日 (2017.12.31)

わたしたちはその栄光を見た  ヨハネ1:1~18

<テキスト、原本ヨハネ福音書>
1.序詞「ロゴス讃歌」<1:1~5、9~10a、14a>
  始めに ロゴスがあった
  神の  ロゴスであった
  ロゴスは 神であった
  神のロゴスが 始まり
  神のロゴスにより 万物は生成されたる
  神のロゴスが 万物の根源である
  ロゴスは 生命である
  生命は  人の光
  光は   闇の中で輝き 
  闇は   光に勝てない
  真の光が ある
  真の光は すべての人を照らす
  真の光が 人の世に来た
  真の光が 人の世にある
  世界は 光によって生成された
  ロゴスが 人となった
  ロゴスが 人間と共に生きている
  私たちは その栄光を見た

著者による挿入:ヨハネ1:6~8
ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです。

教会的編集者による挿入:ヨハネ1:10b~13 ヨハネ1:14b~18

10b世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14 (言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。)それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

<以上>

<まえがき>ヨハネ福音書の序詞の部分の資料分析

1.この福音書を書いたのは誰かということについては2世紀末以後、イエスの弟子、特に「イエスが愛した弟子」(ヨハネ13:23,19:26,20:2,21:7)ということで何の疑問もなかった。そして、その弟子はヨハネであるとされた。つまり「使徒ヨハネ説」である。これを最初に唱えたのは180年頃の正統主義神学者エイレナオスである。この説は近代聖書学によって一応は疑問視されたが、そのときでも「長老ヨハネ」(ヨハネ第2の手紙、ヨハネ第3の手紙の発信者)とされ、それほど問題にはされなかった。ともあれ、長老ヨハネにせよ、「イエスが愛した弟子」にせよ、その人物像そのものが謎で、それを「使徒ヨハネ」と同じ人物だと考えても、それほど問題ではなかったのであろう。松村克己も一応この説に基づいて考えている。
著者を特定することは難しいとしても、本書の内容からある程度著者像を絞ることはできる。この著者はユダヤ教やユダヤ地方の地理等についてかなり詳しいので、おそらくユダヤ人キリスト者であろう。重要なポイントはペテロとその流れのキリスト教に対して批判的な立場に立っている。また裁判から処刑にいたる部分の描写がかなり細かい点を考慮すると、30年前後からあまり離れていない頃にこれを書ける人物であろう。そこで、この著者はマルコ福音書を知っていたのかどうかということが問題視されるが、彼は明らかにマルコ福音書を知り、それを修正しようとする意図が見える。ところが他方、この福音書にはかなり後期の、つまり紀元1世紀の終わり頃の教会のサクラメントや教理の影響が見られるので、著作年代は1世紀の終わり前後とされてきた。
この福音書を読んですぐに気づくことであるが、この福音書は文章の流れがちぐはぐして、つながりが悪いことである。これはその著者の文章の特徴だと言ってしまえば、そうだとも言えるが、さらに詳細にギリシャ語およびそこに書かれている思想を分析すると、一人の編集者あるいは編集者グループによる著作の限界を超えていると思われる。
この点について、田川建三氏の労作、『新約聖書・訳と註』第5巻「ヨハネ福音書」(2013年6月)では、現在のヨハネ福音書はもともとあった『ヨハネ福音書』にかなり後期の編集者がかなり手を入れ、再編集されたものであるとされる。その後期の編集者をその思想内容から「教会的編集者」と名付け、詳細に原著者による部分と教会的編集者による部分とを分析している。このレベルになると素人の手に負えるようなことではないが、読んで、それを実際にテキストに当たってみるとかなり正確であると判断することはできる。田川氏によると教会的編集者が挿入した部分は下記のとおりである。当然これはあくまでも仮説であり、今後の研究によって更に増える可能性は十分にある。

教会的編集者が書き加えた部分

1:10b~13、14b~18、3:11~21、31~36、4:22、5:14、28~29、39c、(45~47)、6:(28~29、36)、37~40、44~46、51~58、7:(38~39)、8:51、11:49~52、12:37~41、48~50、13:10~11、18~20、28~29、32~35、14:3、12~25、28
15:~17:、18:9、14、32、19:23b~24、34~37、20:9、17、19~23、24~27、30~31

私はこれらの部分を除き、原著者によるもともとの『(原)ヨハネ福音書』(と思われる文書)を書き出し、シナリオ仕立てにしてみた。もとより、これは学術書に類するものではなく、「読み物」に類するものであるが、出来る限り正確さを求めている。
教会的編集者による15章から17章はかなりはっきりとした一つの文書になっているし、21章は教会的編集者よりもさらに後の時代の補遺であると思われる。7章53節から8章11節までは原著者でもなく教会的編集者にもよらない一種のエピソードだと思われる。これらについては別の機会に改めて論じたいと思う。
ただ1点、教会的編集者の思想はヨハネの手紙の著者と共通するものが多く、おそらく同じグループによるものと思われる。松村克己は『ヨハネ福音書講釈』を執筆する前に『交わりの宗教』を著し、その副題が「ヨハネの手紙講釈」で、これは京都大学哲学科キリスト教学の助教授から、つまり宗教哲学から神学に移行するときの記念碑的作品で、いわばこれが先生の神学的立場となっている。従って、この視点からヨハネ福音書を読んでおられるので、それはそれとして非常に興味深いものがある。

2.序詞の部分の分析
ヨハネ福音書ではいわゆる「ロゴス」についての序詞を文頭に掲載し、この福音書が語ろうとしている内容を「詩」の形で語っている。ここにも原著者と教会的編集者の手による部分とが混在している。
おそらく6節〜8節の部分は原著者自身による、この詩を理解するための一種の「註」であろう。
(1)「ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです」(6~7)。
(2)「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(10b~13、新共同訳)。
(3)「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14a)は「原序詞」の締め括りの句であろう。
(4)「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである』。」。わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(14b~18、新共同訳)。

1. 降誕後第1主日の福音書
降誕後第1主日福音書のテキストは毎年同じ箇所が読まれる。しかもそれは降誕日のテキスト(1~14節)を拡大した形になっている。従って、説教者はこの日のテキストとして 15~18節を中心として取り上げるべきか、この箇所全体を取り上げるべきか、考えさせられる。もっとも聖書のテキストのこだわらない説教者にとってはどうでもいいことかも知れないが、私にとってはなかなか興味深い。そのことは同時に降誕後第1主日を降誕日との関係でどう捉えるのかということとも深く関係している。(他にも選択肢はありますが、ここではそれに触れない)
端的に結論だけを言うと、降誕日とは出来事そのものを中心とする祭りである。それに対して降誕日の次の主日は御子の降誕という出来事に対する私たちの関係、あるいは反省である。本日のテキストに当てはめると14節の前半と後半との関係である。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事に対して「わたしたちはその栄光を見た」(14節前半)と告白し、見た内容を「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節後半)と報告(証し)する。それが降誕後第1主日の意味である。従ってどちらかというと、説教者としての立場としては降誕日よりも降誕後第1主日の方が力が入る。ところが非常に残念なことであるが、クリスマスと正月の間にある降誕後第1主日はしばしば勝負が決まってしまった後の消化試合のような感じで受け止められているきらいがある。

2. 私たちが見たもの
さて、既に上で見たとおり、この部分については大きく分けて1~14a節の原著者の詩の部分と、14b~18節の教会的編集者との部分とに分けられる。従って、著述年代としてはおよそ半世紀のずれがあり、その間における「神学的展開」が見られる。
前半の最後の句が「ロゴスが人となった。ロゴスが人間と共に生きている。私たちはその栄光を見た」である。ここでは10b~18が1つのまとまりであり、そこに原著者の詩の結論部分「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14a)が取り込まれていると見るべきであろう。要するに、教会的編集者は、この結論部分に対して1世紀末における神学的解説をしているのである。
おそらく教会的編集者と同一人物かあるいは同じグループの人物と思われるヨハネ第1の手紙の著者がその著の冒頭で次のように述べている。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:1~3)。この2つの言葉は見事に響き合っている。

3. 「見る」という経験
ここからが問題である。見る眼が肉眼である以上、見えるのはあくまでも目の前の現象である。ところが、ここで「見た」とされる神のロゴスとか永遠の光は肉眼の対象になり得ない。ここが重要なポイントで弟子たちは肉眼で肉体であるイエスを見ることを通して肉眼では見えないものを「見た」。もし神のロゴスが肉体をとってこの世に現れなければ、わたしたちは永遠に神のロゴスを見ることができなかったであろう。
洗礼者ヨハネは洗礼を施しているイエスを見て、「わたしは、『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と証言をしている。その時イエスの姿はその場にいた人ならば誰でも見えたに違いない。ところがヨハネだけが人びとに見えない出来事を見ていた。なぜ、そういうことが起こるのか。

4. 「見る」を成り立たせる証言
さて私たちが日常経験する「見る」という行為は、「見るもの」と「見られるもの」との関係である。「見るもの」は見ているものについてのある程度の理解(前理解)がなくては、「見る」という行為すら成立しないし、見ていても、すぐ忘れてしまい、見たという経験として残らない。ただボーッと眺めていたにすぎない。それは決して「見る」という行為ではない。その場にいたすべての人に見えなかったのに、なぜ洗礼者ヨハネには見えたのか。ここに一つの重要な秘密がある。ヨハネがそれをどこから得たのか分からないが、ともかくヨハネには一つの強烈な予感(前理解)があった。それを示している言葉が1:33である。「ただ、私に水で洗礼を授けるようにとお命じになられた方が、私にこう言われたのです。その人の上に霊が下って来て、そこに留まるのを見たら、その人が聖霊で洗礼を施す人だ、と」。ヨハネは、そしてヨハネだけがあらかじめこの言葉を聞いていた。従って洗礼を受けに来ている人びとに対する見方が違っていた。だからこそ誰も気が付かないことにも気付く。そしてヨハネは言う。「そして私ははっきりと見たのです。この人の上に、天から霊が鳩のように下って来るのを見たのです。だから、私は確信を持って、この方こそが神の御子だと証言いたします」(1:34)。その予感通り、ヨハネは「見た」。だから証人になった。見た人が証人になる。ヨハネの証言を聞いて信じた人びとはイエスにおいて神のロゴスを見た。ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネを「ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです」(1:6~8)とする。ここがほかの福音書と異なる点である。ヨハネ福音書においては信仰に至る道において、この証言(=前理解)ということが決定的な意味を持つものとして語られている。この全理解を助ける者として洗礼者ヨハネが描かれている。

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