ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

「エドガー・スノウが見た日本」(上)

2016-07-06 08:42:39 | 雑文
「エドガー・スノウが見た日本」(上)

ここで、著者は「近代化から始めて満州進出にいたる日本の歴史」を国際的な視点(特にアメリカのジャーナリストとしての視点)から、詳論する。全体は、以下の4章に分けて論じられている。
第1章 日本の近代化
第2章 明治政府の成立
第3章 日本帝国の海外進出
第4章 朝鮮併合から満州への進出
非常に重要な部分なので、全文を2回に分けてブログに投稿する。 なお、これらのサブタイトルは分野によって付加された。(『極東前戦』より、19頁〜27頁)

第1章 日本の近代化
はるかにさかのぼれば日本人はタタールの血をもつ満州人的素質をまじえた人種であって、その高句麗的特徴は今日も著しい。このことを考えてみると、彼らがいま征服の使命を果たそうとしていることに、まざまざと歴史のくり返しを見るのである。大陸への彼らの侵略ぶりは、かつて満州の辺境から興って、アジア内陸を席巻していった部族の記録を再現しようとするはっきりした傾向を示している。
しかし北方大陸から日本にきた血統には、他のいろいろの血銃がまじった。列島の南端には中国原住民のシヤン族が、さらにのちには漢民族がやってきた。南アジアからは好戦的なマレー人が血液をもたらし、白人系原住民アイヌを追い出し、4つの島のうち最も大きい本州で決定的な存在となった。一部の人種学者はもっと古い時代にアフリカ人やエジプト人の血がまじっているという。中国大陸の沖合にある、海にとりまかれた列島に初期の大和文化を築き上げたのは、まさに種々の人種だったのである。
だが数100年にわたって大陸とは一切関係をもたなかったことは、大陸民族と人種的類似性をもつ日本人の肉体的特徴を、かなりの程度まで消してしまった。またこうした孤立が日本人の中に著しい均一性を生み出した。お互いに海賊行為をはたらくといった程度の海上、または沿岸の散発的な戦闘を除いて、日本は最近まで満州とはなんの関係ももたなかった。しかも欧米との革命的な接触によって日本文明が 大きく影響されたのちに、満州との接触が始まったのである。 
1853年にペリー提督がアメリカの黒船に乗って横浜沖に到着し、その翌年、日本に門戸開放を迫った。彼は迫力と活気に富む一連の動きを始動させた。その結果ゆるやかな連合にすぎなかった封建諸藩が中央集権の一帝国に変貌した。そして西欧機械文明の力は、日本の文明を変質させ、それに推進力とエネルギーをあたえた。その結果、日本は 必然的に侵略に向かうに至った。

西欧諸国の人々は日本人と中国人は非常に似ていると思いがちだが、それは間違っている。ずっと昔に中国人の血が日本人の血とまじったことがあるが、決して優勢にはならなかった。日本人と中国人が共通の文化的伝統をもっていることはいうまでもないが、そこには心理的にも歴史的にも大きな相違がみられる。過去1世紀の間にこの相違は急速にひろがった。現在両国民は体格容貌も、心理状態もイギリス人とたとえばギリシア人が異なるよりもっと人種的に異なっている。外にあらわれたこれらの相違点を一言で説明することができるとするならば、おそらくバートランド・ラッセルの言った言葉が最も近いだろう。「日本は中国と異なって宗教的な国だ」。
日本文明の起源は割合に新しい。日本がちゃんとした歴史をもつようになったのは、2人の日本人仏僧が黄海を越えて中国に渡った7世紀になってからのことである。この2人の守護神は日本の国教である神道の神々だったが、彼らは最盛期にある唐文明から文字と詩の芸術を持ち帰り、自分たちの島にも中国名をつけた。東の海に横たわっているこの国を、大陸本土の人々は自然と日の本、つまり「日本」と呼ぶにいたった。この漢字が日本語になったのである。今日わたちはこれを「旭日の国」という英語に翻訳している。
唐王朝の時代とそれ以後に、当時地上で最も優れた文明の精華が日本ヘもたらされた。儒教、仏教、道教が中国の音楽、劇、絵画、陶器とともに大和民族の関心を集めた。銃器の使用法、印刷、製紙、羅針盤の法をとり入れた。日本で中国の文化と仏教が盛んになるにしたがって、いくつかの政治的理念や道徳観念も導入されたが、それは日本独特のやり方によるものだった。中国で唐王朝の皇帝が「天子」といわれる場合は、神格をもつものではなく、ただ神意によって統治するものと信じられた。だが日本ではミカドが「天子」とよばれるのは、ただ言葉の上だけではなく、彼の血統は直接に太陽の女神に遡るとされたのである。
日本の学者や上流階級の人たちは、儒教と共に中国の古典を学んたのだが、中国で儒教が一般家庭の信仰であったたのに対し、日本では特権階級の信仰となった。日本人は中国の服装、礼儀、建築術、習慣、生活様式を採り入れたが、それらを大きく変えてしまったので、原形がほとんどわからなくなってしまったほどだ。日本人は後に西洋文明の意味に彼ら自身の解釈を加えたように、中国文化を日本の伝統と環境に適合するようにとり入れたのである。
人々が不思議がるほど日本は急速に近代化され、統一をとげ、西欧的感覚からいっても進歩をとげたのにくらベ、中国はますます混迷と分裂に陥って行くようである。イギリスと全ヨーロ ツパが比較できないように、中国と日本は比較することはできない。国土広大で数世紀にわたってその文明(多くの人が思うように、それは決して眠っていたのではない)の中で安定していた中国が、国土狭く孤立しており、その文化は末発達で、地埋的にも攻撃を受けやすい日本と同じような形で西欧の刺激に反応したとしたら、それはおかしなことであろう。またこの比較はもっと長い考察に値する問題を含んでいる。しかし日本が今日のアジアにもつ意味を理解するためには、最近の出来事をある程度知っておかねばならない。
横浜へやってきたペリー総督は、日本に徳川幕府と長州藩、薩摩藩の3大勢力が割拠していることを知った。このうち徳川幕府は数世紀にわたって優位を保っていた。それは将軍職をにぎり、他の諸藩は幕府にある程度の忠誠を寄せていた。彼らのもとでミカドは一切の政治的権力を奪われていた。天子と呼ばれ、民衆にとってはなお神聖な存在であったが、12世紀以来天皇が権力を実際に行使したことはほとんどなかった。
低い身分の百姓や町民に対して生殺与奪の権をもつ藩主たちによって、一切の社会的、政治的生活が動かされていた。この藩主のもとに武士たち、つまりサムライが日本文明の上層階級を形づくっていた。これはもちろん中国の社会組職とまったく違うもので、中国では兵士は社会の最下層に位置付けられていた。藩同士の敵対心、他の藩に対して軍事的優位に立とうという願望こそ、薩摩と長州がまず徳川家を倒して王政を復古した最大の原動力だった。現在の日本を特徴づける国枠主義と軍国主義はそこから発生しさらに発展したものである。
1867年に徳川幕府が倒れると、長州と薩摩はただちに明治天皇を帝位につけて、王政復古を行なった。日本の歴史家はこれを明治維新とよんでいる。薩長連合勢力を背景に、明治天皇は日本を変身させる新しい力を指導する最高権力を与えられた。幸いなことに、彼はその責任をはたすにふさわしい素質をもっていた。彼は英知に富み、人を使うのが大変うまかった。年少気鋭の彼は急激な変化の基本的重要性をつかんでいただけではなく、その変化を可能にする新精神をつくり出すことに力をつくした。彼は何よりも歴史に対する深い感覚をもっており、現実に起こった事態をうまく処理して、日本人の性格に消すことのできない刻印を残した。一時のアテネが「ペリクレスの顔」をもっていたように、日本は当時も今も明治の顔をもっている。そのころ明治天皇が直面したもろもろの困難を検附し、数世紀にわたって積みあげられた身分上の権力と特権をみごとに崩し去った社会的、政治的革命を考察すればするほど、それが並はずれて有能な指導のもとでこそはじめてなしとげられたことが理解できる。それから1世紀たった今日、歴史家たちは明治天皇の治世に、いろいるの点で彼こそ当代第一流の人物であったことにおそらく意見が一致するだろう。

明治天皇の側近として薩長の指導者たちに、徳川家や小藩の者も多少加わって、元老とよばれる諮間委貝会がつくられた。それから数10年間、これらの元老と天皇がもっぱら日本を支配した。元老のひとりだった西園寺公は今も生きており、元老がもつすべての特権をもっている。彼はいつでも天皇に会うことができ、国家の重要問題に関する彼の助言は決して無視されることがない。現在は地位の高い政治家たちによって構成された枢密院が元老にとって代わっているが、その影響力はあまり大きくない。
変革は上層部だけでおこったのではない。若いサムライたちの間に、「外夷」の襲来が大きな興奮をまきおこした。外国人を追い払えという者もあれば、殺してしまえという者もいた。イギリスがわずか数回の砲撃で横浜にある紙の家を焼き払ったことから、いっそう勢力をえた攘夷派その他のもの、まず欧米人のもつ力の秘密を体得することによって、彼らを永久に追い出すことができるのだと主張した。
このことをいち早く唱えたのが吉田松陰だった。彼は伊藤、井上、山県ほか近代日本を築き上げた人々のすぐれた教師だった。松陰は並はずれた洞察力をもっていた。近代戦争の技術を身につけて、その応用で野蛮な外国と同等の実力をもたないかぎり、日本は間もなく併合されてしまうということを、彼は知っていた。それ以外に物質的により強大な西欧諸国のいずれかに日本が併合されるのを防ぐ道はなかった。そこで彼は日本は新しい殺人枝術を習得すベきだと弟子に教えた。さらに彼は日本がそれをやりとげた暁は、アジアで優位を占めることができ、台湾、朝鮮、満州、中国を併合して帝国を拡張できると述ベた。やがて日本は世界支配をめざしてヨーロッパに挑戦できようというのであった。
この教師の2人の弟子、日本のジェファーソンとハミルトンと称せられた伊藤博文と井上馨は師の予言を信じてイギリスに密航し、そこで未知の暴力文明についてじかに勉学することができた。彼らの渡欧は千年以上も前に唐の首都への苦難にみちた旅を果たして、文物の贈り物を持ち帰った勇敢な僧と同じ程度に、日本の運命に大きな影響をあたえた。生前にこの2人の青年は日本で最高の栄誉を受け、公爵に列せられた。

第2章 明治政府の成立
ものやわらか伊藤が「他人の知識を上手に利用する男」であったことは間違いない。そこに彼自身の天分
があり、また近代日本の天分があった。ヨーロッパから帰朝した伊藤は、身につけた西洋の知識によって、より年長の顧問官たちをしのいで、ずばぬけて高い地位についた。変貌しつつある国の中で儒教の教義がたちまち生彩を失ったように、年齢というものがますます重んじられなくなっていた。同時に井上の言も重視されるようになった。彼は元老たちの内部にも影響力をもつにいたった。この2人は日本を西欧諸国と向じ地位に引きあげ、帝国の版図を拡脹 するという坂最終目標をめざして、たゆみない努力をつづけた。彼らの計画は西欧の科学を大量に輪入することと、日本がアジアの一部とみられるような古い文化的つながりを
一時的にせよ断ち切ることであった。国家は統一され、新秩序は確立された。伊藤、井上ら第1次「帰朝学生」は国 づくりにますます自由に腕を揮えるようになった。
日本の発展の過程は歴史にその例をみないものだった。50年足らずの間に、日本の大部分で生活様式が新しい型に変った。文盲は一掃され、すべての分野で遅くて古くさいものは西欧の早さにとって代られた。サムライは刀を召 しあげられ、もっと能率の高い殺傷兵器の使用法が教えら れた。日本は工学、医学、建築学その他の分野の新しい科 学を、資本主義制度の本質とともに吸収した。日本は西欧の大都市生活と同じ基準で、電化、機械化、工業化、組織化、規格化をなしとげた。日本は文語をすっかり改めて、カタカナを新しい時代の新しい伝達手段として使うようになった。何100という奇妙な新語が日常語の中へ入ってきた。アイスクリーム、ランプ、ハイカラ、ストーブなどがそれだ。だが何より重要なことは、日本が外国から輸入した新しい神秘的な兵器で軍備を固めたことだった。
しかし外国から輸入されたものはすべて日本固有の社会的、政治的型にはまるようにつくり変えられた。元老と天皇はこれまで多くの人が不可能だと思っていたことをやってのけた。彼らは国民に西洋文明のすぐれた方法と知識をあたえると同時に、天皇を神の権化とみなすことを基本的信念とする政治形態を固定しようと試みた。この事態がもつ深い意味は、世界の一部ではまだよく理解されていない。
日本で西欧の科学が普及し、その科学の恩恵を国民がひろく受けるようになったが、この神権政治という社会観をもつ国民大衆の信仰は一向に揺るがなかった。今後もそのようなことが起こるとは信じがたい。西欧で政治的現実主義と社会的合理主義を発達させたすべての力を能率的に使う法を日本は学んだが、その道徳と宗教は始んど影響を受けなかった。このことが明治維新の建設者たらの目的でもあったと思われる。だが国民がこの目的をほぼ計画通リ達成したことは実に驚嘆に値する。今日の日本では国家と宗教は不可分なものになっている。1889年に天皇が発布した日本帝国憲法に関する「義解」の中で伊藤公はこの憲法を起草したときの意図をはっきりと述べている。
「天皇の御地位は天地開闢の時に確立されたものである。天皇は神の御子であり、臣民の上に君臨し給い、神聖にして不可侵である。法に対して然るベき配慮を払い給うも、法は天皇を制約し奉ることができない。臣下において不敬のことがあってはならず、また天皇の御品位を損するがごとき解釈や論議は許されない。天皇は国家の主権と国家および国民の統治権を一身に具現し給うものである」。
これが維新後に薩長の元老が広めた信仰の中核をなすものである。その計両は達成され、今日の日本では天皇は常に全知全能だと信じられている。日本人が天孫民族だということも一般の信仰だ。つまり神から生命を与えられたおかげで、彼らは他の民族とは無比の特性をもっているというのである。したがって日本の歴史は彼らの信仰と矛盾する点はみごとに避けて、宗教的な調子で貫かれている。だから現代の日本人も、神武天皇が紀元660年の2月11日に建国したという話を固く信じている。それは数世紀前アッシャー司教が、この世界は紀元前4004年11月23日の午前9時から始まる6日間につくられたものだといった神話と同じく、あまり根拠のないものだ。ヨーロッパでひところはアッシャー司教の神話を信じないことは異端者だとみなされた。日本では今日でも神武天皇の伝説を公然と否定することは大逆罪である。学生がそれに疑問をもつことも許されない。それは「危険思想」とみられる。日本の書かれた歴史は6世紀以後にはじまったという、 学者ならだれでも知っている事実を、日本の教科書は巧みに隠している。
古い天孫信仰は元老たちによって強化され尾ひれが付けられた。彼らははるかな過去に遡って神道とよばれる古い宗教にそれを結び付けた。神道とは日本に仏教が伝来する千年も前からあった漠然たる宗教である。それは忘れ去られたわけではないが、ずっと衰微の一途をたどっていた。自分たちが広めようとする新しい宗教を裏づけるための名分と背景を求めて、元老たちは神道にとびついた。彼らは神人融合の慨念を思いつき、それに日本の過去を栄 光づけるあらゆる神話と伝統を結びつけた。それらのあるものはまったくの作りごとだ。たが、事実にもとづくものも多少はあった。この新しい「英雄崇拝」の宗教が純粋な信仰となり、臣民たちは物理や地理の科目と一緒にこの信仰を教えこまれた。彼らはそれを信じて疑わなかった。
近代日本に永年住んだネービル・ホワイトマントは言う。
「日本人の理性にとって証明は必要でない。他の国民に関するかぎり人類学には一定の道理というものがあるが、日本人の場合は特別の見方をしなければならない。ちゃんとした科学でさえも彼らの意思通りに曲げてしまえるのだから、日本人が自分たちを天孫民族だと思っても不思議ではない」。
今も神道は裕仁天皇の臣下に対しても、半世紀前の明治天皇の臣下に対してと同じように教えられている。臣民はすべてその神々をあがめねばならない。日本人は子どものときから神社の前にぬかずき、神に祭られた明治天星に祈り、今しろしめ現人神として裕仁天皇をあがめ奉るのである。神道は衰退する帝国主義の世界の中で、日本が今日地上最強のほんものの君主政体である理由を説明する。選挙や種々の公民権の拡大など民主主義の見せかけはあるが、天皇は神道の精神を憲法の定めるところによって、専制君主または神として統治することができるのである。
伊藤公は説く。「日本帝国憲法にもとづ いて天皇は立法、行政、司法の主権を行使する。天皇は帝国議会を招集し、その開会、閉会、停会および解散を命ずる。帝国議会閉会の場合は、法律に代わるベき勅令を発する。天皇は陸海軍を統帥し、戦を宜し、和を講じ、諸般の条約を締結する。また大赦、特赦および減刑を命ずる」。
日本近代化のおもな目的がアジアにおける最高地位につくためだったので、天皇は国民が西洋の先輩たちと同じように軍国主義に徹するように導いた。神道はこのことを著しくやり易くした。サムライのおきての武士道、古くから日本人が理想とみた戦闘的な忠誠心をたたえる武士道もこの投割を果たした。この感情的な忠誠心は、たちまち完全な侵略的国家主義となった。
新しい日本にとってイギリスはあらゆる点で良師となった。イギリス艦隊を模倣し、イギリスの海戦術が採用され数100人のイギリス人教官が指導のためやってきた。陸軍に関しては日本はドイツの様式をまねた。
天皇は薩摩藩に対して太平洋で最も強力な艦隊をつくる任務をあたえ、長州藩の指導者たちにはアジアで無敵の陸軍をつくるよう命じた。クライブ、スタンリー、リビングストン、ビスマルクのほか西欧の帝国建設者たちの一生が、当座の間、若い見習士官たちの憧れの的だった。だが彼らは神道の中ヘは入って来なかった。日本が近代戦の中でそれ自身の英推をもつようになると、ヨーロツパの英雄と先生たちはたちまちお払い箱となった。
明治の使命は「東洋平和の守り手」になることだった。日本は東京の警察官となった。だが警察行動をとるためには「権益」をもつことが必要だった。「権益」を守るため には(中国人その他の東洋人は大砲や軍艦の秘法を知らないほとんど未開の氏族だから)、その土地に対し物理的支配力が必要だった。この物理的支配を主張するためには、経済的、軍事的に進出することが必要だった。これが英明な明治天皇の頭の中にあった一連の考え方である。
天皇と元老は工業化とともに、近代的な医学、衛生学、衛生思想その他の科学的新技術が入ってくることによって日本は間もなくその狭い国土に人口を収容し切れなくなることを早くから知っていた。そこで日本人は人口抑制にとりかかったかというと、まったく逆だった。彼らは地図の上の拡張しようとする地域に印をつけた。台湾、朝鮮、シべリア、満州、モンゴルおよび中国がその中に入っていた。明治時代の終わりになると人口は4千万人に達し、テキサス州のほぼ半分にずぎない国土は狭すぎるように感じられるに至った。
現在日本の領土は、樺太、朝鮮、台湾、膨湖島、それに満州と内モンゴルの一部を含んでいる。日本はすでに人口7千万人に達し、(帝国領土のうち日本人以外の住民を入れると9千万人に近い)、1年に100万人ずつふえるという、近代国家の中で最も高い出生率を示している。その増加する人口をこの傾土はいつまで維持できるだろうか。日本では25秒に1人の割合で出産があり、イギリス人の母親が平均1人しか子どもを生まないのに対し、日本人の母親は平均3人を生む。産児制限は「危険思想」であり、法律もそれを禁じていた。マーガレツト・サンガーは日本ヘの入国を拒否された。軍部は彼女が異教徒的なやり方で人口増加の制限をとなえていると聞いて仰天した。
西欧化された日本の新時代の国民思想は、このようにはじめから陸海軍部によって左右されていた。日本人は体が強くて力持ちの人種に成長するようにどんどん子どもを生めといわれた。それは東洋平和を維持する新しい警察をつくるため、日本の権益を守る大砲の餌食をふやすためだった。
戦時における重要性をよく知っていた政府によって、海運会社が組織された。日本の資源は限られており、つねに原料供給を確保する必要があった。綿糸工場や絹糸工場がつくられる際には、いつでも簡単に火薬工場に転換できろるように設計された。他の大企業も平時の経済的需悪をみたすと同時に、軍需にも応じられるようにつくられた。
日本の大企業は文字通り、一大トラストとなり、全産業の70%が三井、岩崎、三菱、井上、鈴木、山県といった数個の財閥の手に握られている。彼らは貴族の出である。彼らが今手にしている新しい富と力は天皇の権力に負うところが多い。そしてこれらの財閥は過去も現在も、日本がつねに戦争ヘの圧力を伴いながらアジアヘ経済進出するための手先となった。このようにして新しい資本主義も宗教と同様に、日本の国家と切り離せないものになった。 これらはまったく疑う余地のないことだった。さらに教育が純粋に国家目的に利用されていた国では、どんな懐疑主義も有害な思想であるばかりでなく、法によって罰せられた。


最新の画像もっと見る