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説教:被献日   (1986.2.2、改定.2018.1.30)

2018-01-30 09:15:16 | 説教
説教:被献日   (1986.2.2、改定.2028.1.30)

《 30年以上も前の説教ですが、今読み直しても生きていると思いますので、ここに投稿します。その時の原稿では全体は「です」調で書かれていましたが、その点は書き改めました。また、その頃は文語訳聖書を用いていたようですが、それはすべて新共同訳に改めました。》

被献日説教:あなた自身も剣で心を刺し貫かれます ルカ2:22~40

<テキスト>
22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。23 それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。24 また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。35 ——あなた自身も剣で心を刺し貫かれます——多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
39 親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。
40 幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
<以上>

被献日というのはクリスマスから数えて40日目に当たる。この日は本日の福音書にも見られる様に、モ-セの律法によると、男の子を生んだ女性は40日目に神殿に参り、清めの儀式を受けることになっていた。この儀式には2つの意味があったようである。一つは、お産をした女性の清め、もう一つは幼な子を神に捧げるということである。この儀式そのものは現在では、「産後感謝式」として受け継がれているが、意味はかなり変化している。

第1に、お産をした女性は汚れているという思想は、もはや私たちには受け入れられないものになっているし、従って母親を「清める」という考えはしない。むしろ、「産後感謝式」では子供が与えられたことを感謝する、ということに強調点が置かれている。

ところで、幼な子を神に捧げるとということが、子供が与えられたことの感謝ということの陰に隠れてしまって、すっかり忘れられているように思う。私の個人的な考えでは、何か大切なものが失われてしまった様な気がする。私たちは与えられたから、捧げるのであり、そこに信仰のダイナミクス、信仰の力が働くのである。

本日の特祷、使徒書、福音書では、「被献日」という言葉が端的に示しているように、マリアの「清め」という方は影が薄れ、捧げられた幼な子イエスということが強調されているように思われる。被献日とは、イエスが捧げられた日に他ならない、とされている。

日本聖公会婦人会では、大正9年(1920)、被献日を創立記念日と定め、毎年各教区や伝道区で特別な集会が企画されている。今年は丁度この日が主日に当たる関係で、京都伝道区では明日特別な集会が予定されている。おそらく被献日を日本聖公会婦人会創立記念日と定めた背景には、イエスを捧げた聖母マリアの徳に与りたいという思いと祈りがあったのだと思う。

捧げられた幼な子の方に重点を置くか、捧げた母親の方に重点を置くかは、それぞれの立場とその時の課題あるいは問題によっていろいろあって良いと思う。
本日は、親子関係における「捧げる、捧げられる」という関係について、暫く御一緒に考えたいと思う。

先ず、親の方から考えると、子供は全て神から与えられたものという認識 がある。これは信仰があろうと、なかろうと、事実として子供は神から与 えられたものなのである。時には、どんなに欲しくても与えられない場合もあるし、逆に欲しくなくても与えられる場合もある。子供を自分たちで造 り出したもの、自分の自由になるものという風に考えているとしたら、それ は大変な思い違いと言わざるをえない。また、与えられた子供は私のものという考えも浅はかである。子供はやがて自分の胸の中、手の中から、育ち、自分を乗り越え、離れていくものである。

親子関係とは、離れることを目指して、置かれた関係なのである。それは丁度夫婦関係が一体になることを目指して始まるのと対照的である。親子の離れ方にもいろいろある。捨てるという離れ方もある。無理矢理に引き裂くという離れ方もある。喧嘩別れという離れかたもあるだろう。極端な場合は、殺すという離れ方もある。離れる時期の問題もある。一緒に住んでいても、心はとうの昔に離れてしまっているということもある。

一つの、そして最も美しい離れ方が「捧げる」という形である。「捧げる」ということは、捧げてしまったから後は知らないということではない。それでは「捨てる」ということと何も違わなくなってしまう。捧げた子供がいかに神に用いられる様になるのか、愛をもって見続ける。そして必要な助けはどのような犠牲を払ってでもするが何も要求しない、ということが捧げるということである。イエスの弟子、ヨハネとヤコブの母親は、ある日ひそかにイエスを訪ねて、「私のこの二人の息子が、あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座れるように、お言葉を下さい」とお願いにやって来た。今で言う、コネを使って、地位を得ようとしたわけである。この母親は子供を捧げていなかったのである(マタイ20:21)。

親子の分離といっても、その年齢や成長の度合いによって、分離の程度がある。同様に、「捧げる」ということにも、段階がある。生後40日目に捧げられたイエスにしても、乳飲み子の間は、母親の胸の中で安らぐのであり、12歳の頃には両親と一緒に生活しているのであり、やっと30歳にして独立したのである。この間の30年間、親は子供を養育し、共に生活するのである。否、子供が独立しても、親は子供を愛をもって見守り、必要な助けをする。聖母マリアがイエスを十字架の下から見上げていたのは非常に象徴的である。親のその全ての行為が神に対する奉仕であり、捧げるということの具体化である。

ただ親が子供を養育しているのと違うのは、子供が自分のものであるのか、神のものであるのかの違いである。しかし、親子の親密な関係の中では、何時しか「捧げた、捧げられた」という関係は薄れ、いいかげんになり甘くなる。
幼な子イエスを捧げたその日、マリアに与えられた言葉は「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)という激しい言葉であった。子供を捧げた親がその「捧げ」を貫くためには、常に、そして人生のボイント、ポイントにおいて、胸が刺し貫かれる経験をする。聖母マリアは幾度、この経験をさせられたことであろう。
イエス12歳の時、エルサレムの神殿で、子供イエスに「どうしてこん な事をしてくれたのです。お父様も私も心配して捜していたのです」と思わず詰問し、イエスから「どうしてお捜しになったのですか。私が自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言われた時、マリアの心にはぐさりと鋭い剣がささったのだと思う。注意深いルカは、「母はこれらの事をみな心に留めていた」(ルカ2:51) と記している。さらに、カナの婚礼の時、また忙しく働くイエスを心配して訪れたとき、そして最後に、十字架上のイエスを見上げている時、聖母マリアは剣で胸が刺し貫かれる経験をし、その都度、聖母マリアは捧げ直しをしたことだと思う。

「捧げられたもの」ということを、子供の側から捉えると、私の人生はただ無意味にそこに置かれているのではない、ということを意味する。ただ生まれたから生きている、というのではない人生が私の前にある。それは親の大きな期待というプレッシャ-ではなく、神との関わりの中で、本日の福音書の言葉を引用するならば、「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ2:34) 、要するに隣人、他人のための人生として、受け止めるということである。私の人生は私だけの人生ではない。

「捧げる、捧げられる」という親子関係は、決してそういう儀式をしたとか、しなかったというレベルの問題を遥かに越えて、人間の在り方を、生き方を語っている。

被献日特祷
永遠にいます全能の神よ、この日、独りのみ子は、律法に従い神殿において献げられ、主の民の栄光、諸国民の光として迎えられました。どうかわたしたちも主にあってみ前に献げられ、この世において主の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。

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