ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 03/31~04/06

2013-04-08 12:05:29 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 03/31~04/06

日々の聖句2013 03月31日(日)
神のまことは大盾、小盾。(詩91:4)
二人の天使は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5-6)
私の黙想:
今日の聖句は詩91全体のタイトルと考えたらいい。言い換えると、この言葉の内容が詩91全体である。
神はあなたを救い出してくださる。
仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。
神のまことは大盾、小盾。
夜、脅かすものをも、昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。
暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も。
あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない。
あなたには災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。
主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。
あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く。

この詩はイエスが荒野で悪魔から試みられたとき、悪魔が用いた詩である。悪魔にとって、最も憎むべき詩なのであろう。

日々の聖句2013 04月01日(月)
主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩37:4)
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。(2コリ9:15)
私の黙想:
欲望と願望との区別がつけにくい。両者とも私の中から出てくる願いである。その願望が「善いこと」、信仰者の立場から考えて「御心に適っている」と思うことの場合、それを実現するために、相手を強制したり、自分を犠牲にしたりする。動機も良し、方法も悪くはない。その願望は欲望ではないと確信する。本当にそうか。本当にそれは良き願望であり、決して欲望ではないと言えるのだろうか。その方法は「私の謀」ではないだろうか。ここに決定的に欠けていることがある。「主に委ねる」ということ、「あなたの道を主にまかせる」ことである。そうでなければ、その願望が実現したとき「私の謀」が成功したと思うであろう。伝道とか奉仕などという「善き願い」も 「主に委ねる」ということが欠けると、「私の願い」の実現に変わってします。欲望と願望とを区別することは本当に難しい。

日々の聖句2013 04月02日(火)
主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。(エレ20:11)
わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリ4:13)
私の黙想:
最悪の国際関係。周辺諸国はすべて敵、八方塞がり。彼らの共通の言葉は「復讐」。バビロン捕囚という現実が目前に迫る。その中で、預言者は「しかし」と言う。この「しかし」は現実に逆う。神から見離されたという現実認識に対して「そうではない」という「しかし」である。と同時に、この「しかし」は、現実に逆らい、現実から逃避する「しかし」ではない。敗北という現実を受け入れてもなお、そこに「神が共にいる」という「しかし」である。たとえバビロンに敗北し、捕囚ということが現実化しても尚、失われないもう一つの現実、「神が共にいる」という現実は貫かれるという「しかし」である。

日々の聖句2013 04月03日(水)
主に向かって歌います、「主はわたしに報いてくださった」と。(詩13:6)
フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。(使8:38-39)
私の黙想:
詩13では「いつまで」という言葉がたたみ掛けるように4回も繰り返される。それを受けて、「主はわたしに報いてくださった」という今日の聖句が最後に出てくる。ここでは「くださった」という言葉が鍵になっている。これは単なる時間の経過というよりも深いものがある。「いつまで」を視点に読むとこの「くださった」は、未来の先取りという信仰になり、「くださった」という点を軸に読むと、悩み多かった過去を振り返っての感謝の言葉となる。どちらにも取れる。それは作者の意図というよりも、読み手側の捉え方であろう。

日々の聖句2013 04月04日(木)
諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせよ。(イザ12:4)
イエスの言葉:あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。(ルカ10:15)
私の黙想:
先ず、「気高い御名」という言葉に引っかかった。聖書の中でこの表現は違和感がある。文語訳でも、口語訳でも見られない。新共同訳では、ここ以外に雅歌7:2、フィリ4:8の2箇所のみに見られる。広辞苑では「品格が高い、上品である、高貴である」を意味すると説明されている。一般的には日本人は富士山は「気高い山」だというイメージがあるだろう。この日本語を「神の御名」に当たるということは相応しいだろうか。フランシスコ会訳ではこの部分を「その名が崇められていることを告げよ」と訳されている。神の御名は「乙にすました品の良さ」とか「近寄りがたい高貴さ」ではなく、ダイナミックな働き、静態ではなく、動態にある。旧約聖書における神の御業は荒々しく、畏ろしいものであるということに特徴がある。端的にこの部分が意味していることは、「わたしたちの神は逆らうと怖いぞ」ということを全世界に伝えよということである。

日々の聖句2013 04月05日(金)
わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。(ホセ13:4)
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハ17:3)
私の黙想:
夫婦間の愛は一般的ではない。夫婦間の愛と一般的な愛とは異質である。その意味では親子の愛、あるいは兄弟愛は一般的な愛の基盤と共通する。夫婦間の愛には一般的な愛と異なって排他性がある。ホセア書の難しさは神とイスラエルの民との関係を夫婦間の愛を基盤として語る。
パウロはキリストと教会との関係を夫婦関係に擬する。ここに「愛」について論じ考える場合の陥穽がある。

Akira Ueda 夫婦関係とキリスト=教会関係のアナロジーは、ある種の排他性はありますが、排他的でなければならないということを第三者も認めることが出来るというところに意味があるのかも。

文屋 善明 いえ、むしろ私はキリストと教会とを夫婦関係に擬えることの危険性を感じます。ここにパウロ神学の限界があるのではないでしょうか。キリストを独占しないというメッセージが重要だと思います。

文屋 善明 あっそうか。現在、日本基督教団で問題になっている「フリー聖餐」の問題があるのか。これは確かに排他的ですね。そしてその排他性を第三者にも認めてもらうということがありますね。

Akira Ueda 確かに、ある種の排他性が確保されないと、それ以外の部分での開放性はいえなくなります。これは夫婦でも同じなのではないかと思います。もっとも、結婚してもオープンハウスとかゲスト招待をしない夫婦はいますが。と引っ越したばかりの牧師館をオープンハウスにする計画を明後日に控えての感想。

文屋 善明 新しい任地でのご活躍をお祈りいたしております。

浅井 荘子 そうですね。一人ひとりに”私だけの”があるという気持ちが大切ですね。
私も、友人が”私だけのイエス様”というと、嫌だったけれど。それは、私にも、”私だけの”があると言いたかっただけで。
それぞれの想いには、踏み込めないということを確認しました。でも、それは、とってもむずかしくて、フロイト博士でも、90歳を超えて、分かったこと。人の心の世界の妙です。ありがとうございました。

日々の聖句2013 04月06日(土)
今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。(イザ43:13)
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。(コロ1:17)
私の黙想:
バビロンの捕囚からの解放の預言。神は直ぐにでもイスラエルを解放することが出来るが、未だそれが実現しないのは何故か。という神の主権に関わる最大の問題点を論じている部分。この問いに対する答えは、神義論 と共に、今だに未解答である。というよりも、神の意志については人間の理解能力を超えている。小は大を包括できない。それが神の主権そのものである。人間の目から見ると世界の歴史は、そして私の人生も、神の「きままなドラマ」である。神が著者である。そのドラマがウエットに展開するか、ドライに展開するか、すべては神の意志のままである。私たちに出来ることはただ、今までのドラマの展開の仕方を見て未来を予想するだけである。エジプトの奴隷状態からの解放のドラマを見て、バビロンの捕囚からの解放を期待する。預言者に言えることはそこまで。後は著者を信じ、任せるしかない。

最新の画像もっと見る