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復活論の基礎の基礎

2018-03-26 20:59:10 | 雑文
復活論の基礎の基礎

イエスの復活について考える際の基礎の基礎(四福音書の比較)

1. テキスト
先ず初めにイースターの朝の出来事についての4つの福音書の異動を確認しておく。
マルコ福音書では16:1~8
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
次ぎにマタイ福音書28:1~10
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。
ルカ福音書24:1~12
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ヨハネ福音書20:1~18
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

2. 福音書間の異動は下記の通りである。
(1) 日付は全て「週の初めの日」であるが、時刻についてはマルコは「朝ごく早く、日が出るとすぐ」、マタイは「明け方」と言い直し、ルカは「明け方早く」、ヨハネでは「朝早く、まだ暗いうちに」と情景描写が詳しい。 注目すべきことはマルコとマタイは安息日との関係が明記されている。
(2) 墓に向かった人物はマルコは 「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」の3人の女性たちの名前をあげ、マタイは「マグダラのマリアともう一人のマリア」の2人だけをあげ、サロメが抜けている。ルカは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」と人数が増えている。ヨハネでは「マグダラのマリア」が独りで墓に向かったことになっている。注目すべき点はいずれもマグダラのマリアの名前があるという点である。
(3) 墓に向かう途中で墓の入り口にある大きな石について心配している会話はマルコだけが触れている。石が動かされていたことについてマルコでは何の説明もないが、マタイは「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし」ていたと説明する。ルカとヨハネはただ石がのけてあったということだけを述べている。
(4) 墓の中に居た人物についてマルコは「白い長い衣を着た若者」と述べるが、マタイは「天使」とし、ルカは「輝く衣を着た二人の人」とする。ヨハネではマグダラのマリアは石が除けてあったということだけを見て、ペトロともう一人の弟子の所に報告に帰っている。マリアの報告を聞いて、墓場に駆けつけ、最初に墓の中に入ったのはペトロで、続いてもう一人の弟子も墓の中に入るが、イエスの遺体がないことを確認し、帰っている。つまり、墓の中の人物については述べていない。
(5) 婦人たちが聞いた言葉については以下の通り。
マルコ「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。
マタイは「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。
ルカ「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
細かい相違はいろいろあるが、マルコはガリラヤでの再会の件について「弟子たちとペトロに告げよ」とするが、マタイは単に「弟子たち」とし、「とペトロ」を省く。ルカはガリラヤでの再会の件や弟子たちに告げよということについては一切触れない。むしろ「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と婦人たちを叱る。このことについてはヨハネは何も語らない。
(6) この点が最も重要な違いであるが、マルコはこの場面での婦人たちの反応について、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と語る。ところがマタイは「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と述べた上で、重ねるように、イエス自身が姿を現し「お早う」などと挨拶をした上で「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と語る。この点についてはマタイはかなりこだわりを持ち、天使は「確かに、あなたがたに伝えました」などとだめ押しをしている。
(7) 婦人たちの報告を聞いたときの弟子たちの反応についてはマルコは当然何も述べていない。マタイも何も述べていない。ルカだけは「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」と述べている。
(8) 復活のイエスが現れる記事については、マルコでは16:9以下の括弧の中にあるだけである。マタイでは墓からの帰る途中で婦人たちの前にイエスが登場し「おはよう」と声をかける記事がある。しかし、この記事は信憑性が薄い。イエスが公式に11弟子の前に現れるのは28:16である。この記事で見逃せないのは「しかし、疑う者もいた」という語で、イエスの登場は「疑う余地」があったということである。ルカではイエスが弟子たちの前に姿を現すのはエマオへの途上である。ここで復活のイエスに会ったという弟子は2人で、彼らは婦人たちの報告を聞いた上で、エルサレムから逃げ出した2人である。彼らは直ちにエルサレムに戻るが、その段階で他の弟子たちは復活のイエスに未だ会っていない。2人の報告を聞いている間にイエスが現れ、亡霊でないことを証明するために魚を食べている。つまり魚を食べないと亡霊だと思うという仕方でのイエスの登場である。ルカではただそれだけである。ヨハネにおいては既に触れたように墓に残ったマグダラのマリアに復活者イエスが現れ、会話をしている(Jh.20:14)。
(9) イエスの復活というキリスト教信仰において最も重要な出来事についての4つの福音書の叙述は以上の通りである。復活についての最も早い伝承としてはコリント第1の手紙15章に以下のように記されている。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(1Cor15:3~8)。
この最後の「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」という言葉はパウロの付加であろうが、そこまではパウロに至るまでの伝承である。言い換えると、パウロの付加に続いて、歴代のキリスト者の名前を付加することもできる「伝承」である。つまり、この伝承によると、墓場でのマグダラのマリアへの顕現や、墓から帰る婦人たちへの挨拶や、エマオの途上での顕現などは無視されている。このことはこのこととして別に議論しなければならない重要な問題を含んでいるが、今ここでは取り上げない。

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