イエスは、贖いの死を遂げみ父エホバのもとに帰る時が来たことを知り、弟子たちを最後まで愛されされました(ヨハネ13:1)。それでも、弟子たちは不完全で、弟子たちの間で誰が一番偉いのか、と論じ合っていました(ルカ22:24)。イエスは弟子たちを愛し、最後まで導きを与えました。そのイエスの模範は、師であるイエスが12使徒(裏切者のユダ・イスカリオテを含む)の足を洗う模範です。それは、どのような教えの意味があったのでしょうか。次のように記されています。
「(イエスは)晩さん(の席)から立ち、自分の外衣をわきに置かれた。そして拭き布を取って身に帯びられた。それから、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗い、身に帯びた吹き布で吹きはじめられた」(ヨハネ13:4,5)。
イエスは師でありながら、上の聖句の通り、たらいの水で、12使徒たちの足を一人一人洗い、吹き布で拭きました。これはイエスの模範の重要な教えの場面です。なぜイエスはそのような模範を示されたのでしょうか。その意味をイエスは次のように教えられました。
「さて、彼ら(12使徒)の足を洗い、外衣を身に着け、再び食卓に着いて身を横にしてから、イエスは彼らに言われた、「わたしがあなた方にしたことが分かりますか。あなた方はわたしを「師」、また「主」と呼びます。そう言うのは正しいことです。わたしはそのような者だからです。それで、わたしが、主また師でありながらあなた方の足を洗ったのであれば、あなた方も互いに足を洗うべきです。わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も、わたしがあなた方にしたと同じようにするためです」(ヨハネ13:12~15)。
イエスが弟子たちの足を洗い模範を示されたのは、イエスが示した模範の通りに「互いに足を洗うべき」ということを命じるためでした。「互いに足を洗う」行為は何を意味していたのでしょうか。それは、他の人が自分より上であることを認め、仲間に謙遜に仕えるべきことを意味していました(フィリピ2:3~8)。神エホバは、謙遜な者を祝福されるからです。イエスの弟子たち、同じく今日の真のクリスチャンたちも、謙遜に他の人に奉仕る者であるべきことを命じられているのです。あなたも神エホバに喜ばれる謙遜な人々のお一人であれば幸いです。
小犬らも 歓び遊ぶ 草の花 今日の一句
台風で倒れても咲いた「コスモス」