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映画【ネバーエンディング・ストーリー】

2007-11-22 23:03:40 | 映画
ネバーエンディング・ストーリー
1984
Wolfgang Petersen ヴォルフガング・ペーターゼン



SFファンタジーの大御所。
もの凄く久しぶりに観ましたが、ここまで徹底的なお伽噺だったとは。

先日観た「パンズ・ラビリンス」があまりにも衝撃的だったため、記憶に埋もれているファンタジー作品をもう一度見返してみました。

ちなみに「パンズ・ラビリンス」とは全く違うお話です。ラストシーンの描き方は間逆ですね。
とは言うものの、私のものすごく勝手な解釈である「傷を負った子供が想像力を駆使した自分だけの世界に閉じこもりそこに逃げ込むお話」としては共通しています。
このネタのオリジナルが何なのか忘れましたが、良くあるテーマです。
何でしたっけ?
臨床心理学で言う心的外傷(トラウマ)による誤記憶症候群(フォールス・メモリー・シンドローム)(※自身の持つトラウマの整合性を保つために記憶を捏造してしまう症状。『私は虐待を受けていた』という誤記憶が多い)というものに近いのではないのでしょうか。まぁ、誤記憶の内容が間逆なのでそうは言わないでしょうが。
夢の中でカタルシス(魂の浄化)を感じることで生きる為の活力を得るという健全なのか不健全なのか分かりませんが、
生きることが難しい世界で人間はそういう記憶を創り出すことが出来る。
オチが「植物状態の少年の夢だった」というのは都市伝説のドラえもんの最終回(植物人間バージョン)に近いんですが。
所謂ファンタジーと言われる作品では、主人公の影の部分を最大限にフィーチャーし、それをフォローするためのカタルシスをラストに持ってくるというのが定石なのですが、そう考えるともの凄く悲惨なお話です。
それがSFというフォーマットにするとカタルシスの後に更に「夢オチ」の様な悲惨な結末があったりします。
ファンタジーが栄えた欧州では殆どの国が侵略の憂き目にあい、それをフォローするために空想のお話が発達したのではないかと思うほど。
日本で表現されるファンタジーの力が足りないと感じるのは、その『蹂躙された民族』という意識が無いからではないでしょうか。
ピンポイントでその意識を持っている世代はありますが、それが『民俗』として受け継がれていない。
DNAに刻まれた圧倒的な絶望というものが無い。
太平洋戦争後のGHQ統制下であったとしても、なんだかそれを文化として取り込んでしまう柔軟性も素晴らしいのですが。
ファンタジーの魅力というのは空想と現実の振れ幅じゃないかとおもうのです。
それ故に日本でのファンタジーというのがものすごく個人的なモノになってしまい「分かる人にだけ分かる」というものになってしまう。
「大人のファンタジー」と言われる作品が爆発的にヒットしない理由というのはここにあるのかもしれません。
全国民的に突き刺さるテーマが無い。
結局「人の話」となってしまう。


で、本作の話ですが「想像力」の部分がかなりチープで、普通に思いつきそうなもの。
むしろ、ちょっとイヤラシイ。
本作に原作者がクレジットされていない理由が「原作と意図が全く違っていて、訴訟してまでクレジットから名前を消した」そうです。

けれども、シンプルなテーマと不自由なVFXが逆に脳内補完を促し、結構面白い作品になっています。
これは現在から観た解釈ですが。
これを今のゴリゴリのCGIで作っていたら面白くないだろうなぁ。

作品と表現がマッチした牧歌的な作品ですね。