夕映えに

陽が落ちるまで輝きたい、くさぐさの記録(日々の出来事、読書、スポーツ、友だち)

読書の秋 

2010-10-01 19:15:18 | Weblog

    先日ライブラリーで借りた本の中から
      
  「昭和二十年夏、女たちの戦争」  梯 久美子著  角川書店
                            (かけはし)     (2010年6月)
         
      著者は2009年「昭和二十年夏、僕は兵士だった」で 俳人金子兜太氏
    考古学者大塚初重氏、俳優三国連太郎氏、漫画家水木しげる氏、建築家
    池田武那氏から(いずれも大正生まれ)戦争体験を取材し、若い兵士として
    生き残った彼らが戦争で何を見、その後の人生で同世代の死者たちをどう
    背負って生きてきたかを尋ねた。

    彼らにとっては戦争がそのまま青春だった。 まだ死者ではなかった戦友
     とのエピソードもあり、戦場は自分もまた死者たちとそこで生きていた場所
     だったと・・・・。

    ならば同じ世代の女達は当時をどのように生きたかと5人の女性に取材
    し語られたのがこの本です。

    元NHkアナウンサーで作家の近藤富枝氏、生活評論家の吉沢久子氏
    女優赤木
春恵氏 国連高等弁務官緒方貞子氏、評論家吉武輝子氏から
    でした。

   近藤氏  実らないのよ。何も
                好きな男がいても、寝るわけにいかない
               それがあの頃の世の中。それが、戦争ってものなの
              

     終戦までNHkに通い続けた。先輩局員から「恋人は戦地に行って
      安否もわからないのよ。」と聞いた。しかし、その日 深夜襲った東京大
      空襲で彼女は亡くなった。明治座の地下から遺体で見つかった。
         銃後も安全とはいえず命がけだった
 

   吉沢氏  空襲下の東京で「源氏物語」を読んでいた。
               絹の寝巻きを着て鉄兜をかぶって。
               本当にあの頃は生活がちぐはぐでした。
          
     雪道を足袋一つで歩く人、焼け残った布団をリヤカーに乗せ真っ黒
        な顔と手を見て、これが戦勝国とは思えなかった。玉音放送はよく聞き
       取れなかったけれど、負けた宣言だとわかりま した。今までしてきたこと
      何だったのだろうと涙が出た。

    赤木氏  終戦直後の満州、ハルビン。ソ連軍の下で藤山寛美さんと
           慰問の芝居をしました。上演前にインターナショナルの合唱。
        

       8月15日が来ても敗戦時に満州にいた日本人は現地で生活せよ。
       と、生命の危険(ソ連軍の侵攻)にさらされ政府の方針は無謀だった。
      収容所では飢えや寒さ、伝染病で次々に亡くなっていった。
         引揚が終わったのは23年8月だった。

   緒方氏   始めての就職が20年春。疎開先の軽井沢まで
          自転車をこいだ。
       
            

      緒方氏の曽祖父は犬養毅氏(5,15事件で軍部に暗殺された)
     空襲では毎晩防空壕で夜を明かした。学校(女学校)が焼け軽井沢
         に疎開。戦時下でも英語の勉強に通った。
      終戦直後に大学生(聖心女子大)になり思い切り学べる喜びを
          じた。26年にアメリカ留学、(留学生のさきがけとなる)国際社会の
         要人として現在に生きている。

    吉武氏  終戦翌年の春、青山墓地でアメリカ兵から集団暴行を
          受けました。14歳でした。母にだけは言ってはいけない。
             そう思いました。
         

       現在でも性暴力の被害者が声をあげることは大きな勇気が要るが
       性暴力の根を絶ちたいとの思いから、以後性差別、性暴力をなくし
            戦争を根絶するための活動を行なってきた。

       軍国少女で戦争しか知らない少女時代だった。終戦の前の年
            艦載機が突然急降下アメリカ兵の顔まで見えた。恐怖は忘れない
            アメリカ兵のあの凄みのある笑い顔を・・・・戦争とは兵士にある種の
            人格崩壊をもたらすのではないかと・・恐怖ゆえの憎しみは暴力と
      なり弱いものへと向かう。男性が女性に振るう性暴力も、

        自分を襲った米兵も戦争による恐怖でストレスにさらされていた
             のではとそう考えるようになった。
          心の傷なくとも女性のために戦える人生がよかった。(ああゆ
             う経験がなくとも)

      わたしは上記の世代とは10歳ほど下になり、昭和20年といえば10歳
      で した。それでも軍国少年少女時代を送りました。戦後、教科書の中の
    文を墨で消して使用でした。(主に歴史、修身の教科書)
    運動場ではさつまいも作り、時には内地駐屯の軍隊の訓練もあった。

       何より二人の兄の戦死公報(共にビルマ インパール作戦)は、その後
      のわたしの人生を狂わせました。・・・(姉妹二人となった)