神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

庚申塚古墳と山の神古墳

2011-10-11 23:31:20 | 古墳
庚申塚古墳(こうしんづかこふん)と山の神古墳(やまのかみこふん)。
場所:静岡県富士市東柏原新田。「庚申塚古墳」は、JR東海道線「東田子の浦」駅の東、約400m。「山の神古墳」は、「庚申塚古墳」の東、約150m。いずれもJRの線路の北側に接している。駐車場なし。
JR東海道本線上り線で「東田子の浦」駅を出発すると程なく、線路際の畑の中に小さな森が2つ並んでいるのが見える。あっという間に通り過ぎてしまうが、これが「庚申塚古墳」と「山の神古墳」である。
「庚申塚古墳」は、極めて珍しい双方中方墳(方丘の脇に更に方丘がつながったもので、上から見ると十字形をしているもの。全国でも3基程度しか発見されていないとらしい。)とされている。大きさは、全長40m、幅20m、高さ3.5mとされているが、南側は線路に削られている。丘上に庚申堂があるため、その名がある。大津波の際、この古墳に上って逃れた人々が助かったと伝えられており、別名「命塚」という。詳細な発掘調査はされていないようだが、墳丘に葺石が敷かれていることが確認されている。築造時期は5世紀後半~6世紀前半とも推定されており、この地を支配した海人族の王墓と考えられている。一説によれば、皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した伴造氏である「膳氏(かしわでうじ)」一族に関わりのある人物の墳墓ではないかとされ、「柏原」という地名は「膳氏」に由来するのではないかともいわれる。静岡県指定史跡。
「山の神古墳」は、富士市指定史跡で、前方後円墳とされているが、前方後方墳あるいは円墳という説もある。一部が畑として開拓され、南側はJR東海道本線の線路として3分の1が削られてしまっている。大きさは、長軸41m、後円部の径21m、高さ3m、前方部の長さ18m、同幅15mという。墳丘全面に葺石が敷きつめられており、周溝があったことも確認されている。また、円筒埴輪や須恵器の破片が出土している。築造時期は6世紀後半から7世紀初頭とされ、古代珠流河国の王の墳墓と推定される。なお、この古墳の名は、丘上に鎮座する「山神社」に因む。祭神は大山祇神だが、往古は単に、この地を治める神様だったのだろう。
ところで、古代官道(駅路)はしばしば、こうした重要な古墳の傍を通ることが知られている。「庚申塚古墳」と「山の神古墳」は、海抜5mの砂丘上にあり、この砂丘は駿河湾に沿った砂州となっていた。この砂州は、遅くとも紀元前1世紀には形成されていたといわれているので、初期の古代東海道は、この砂州上を進んだのではないかと思われる。


写真1:「庚申塚古墳」


写真2:「庚申塚古墳」上の庚申堂。中に「青面金剛」と彫られた石が祀られている。


写真3:「山の神古墳」


写真4:「山の神古墳」上の「山神社」。南面しているので、祠前の石段の下は、すぐ線路。
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駿河国の古代東海道(その10・柏原駅)

2011-10-07 23:19:35 | 古道
古代東海道においても、長い間にはルートや駅家の変動があった。駅家の名がまとまって記載されている「延喜式」(927年成立)は、原則的・典型的な姿ではなく、むしろ律令制が崩壊しつつあった時期に当たる。「日本三代実録」(901年成立)の貞観6年(864年)の条によれば、「柏原」駅を廃止し、「蒲原」駅を富士川の東野に移したことがわかる。「蒲原」から東の古代東海道ルートは不明であるが、かつては現・富士市から現・沼津市に跨る広大な「浮島沼」(須戸湖)が広がっており、これを避けて①駿河湾沿いの砂丘上ルート、または②愛鷹山山麓ルート(現・東海道新幹線に沿って、約300m南)のいずれかだろうといわれている。そして、「柏原」駅は、①の砂丘上ルートの場合は現・柏原付近、②の山麓ルートの場合は船津付近と想定されている。「船津」という地名は、浮島沼を利用した水上交通の中心地だったことによるものだろう。
さて、砂丘上ルートには、現在も柏原及び西・中・東に分かれている柏原新田という遺称地がある(JR東海道本線「東田子の浦」駅を中心とした地域)。また、「柏原」というのは、近世東海道の五十三次には含まれない、いわゆる「間宿(あいのしゅく)」であった。「間宿」は、幕府公認の宿と宿の間に設けられた休憩のための宿場で、非公認であるために宿泊は禁じられていた。このため、近世「柏原宿」は飯屋が多く、鰻の蒲焼が名物だったという(十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でも、金がない弥次さん喜多さんは、蒲焼の匂いだけで我慢した、という滑稽な情景が描かれている。)。「柏原宿」は、江戸時代には「間宿」とされたが、宿としての起源は平安時代後期にまで遡るともされている。
こうしたことを含め諸般の事情から、古代東海道における廃止前の「柏原」駅は現・富士市柏原付近にあり、駿河湾沿いの砂丘上に駅路のルートがあったと考えられる。ところが、貞観6年(864年)に「柏原」駅が廃止され、「蒲原」駅が移転した際、移転先は(諸説あるが)現・富士市本市場付近と想定されており、その周辺や浮島沼の北側にも重要な遺跡等も多いことから、このときに駅路も愛鷹山麓を通るルートに変更されたのではないかと考えられている。

なお、「間宿 柏原・本陣跡」の碑の近くに「正法山 立圓寺(しょうほうさん りゅうえんじ)」がある。「立圓寺」は日蓮宗の寺院で、万治3年(1660年)に京都・立本寺20世日審によって開創された。境内にある「望嶽碑」は、文化5年(1808年)に尾張藩医の柴田景浩が、当寺からみる富士山が余りに素晴らしいとして建てたもの。
場所:静岡県富士市柏原2-72。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約300m。駐車場有り。


富士市のHPから(柏原のうなぎの蒲焼)PDFファイル

同(浮島沼の沼のばんばあ)PDFファイル ※昭和15年頃の浮島沼の写真あり

日蓮宗静岡県中部宗務所さんのHP(立圓寺)


写真1:「間宿 柏原・本陣跡」の碑(場所:静岡県富士市西柏原新田。県道380号線(富士清水線)「東田子ノ浦駅前」交差点の西、約200m)


写真2:「立圓寺」仁王門


写真3:「立圓寺」境内。日蓮上人像の隣にある尖った三角形の石碑が「望嶽碑」。
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沓石(静岡県富士市)

2011-10-04 23:56:35 | 名石・奇岩・怪岩
沓石(くついし)。
場所:静岡県富士市今井2-7-1にある「香久山 妙法寺(こうきゅうさん みょうほうじ)」境内。JR東海道本線「吉原」駅の東、約1km。駐車場有り。
「香久山 妙法寺」は日蓮宗の寺院で、寛永4年(1627年)に「身延山 久遠寺」25世日深上人が富士市田島(旧・田島村)に創建。延宝8年(1680年)の津波によって中吉原宿とともに流失してしまったが、元禄10年(1697年)に現在地に移転、再建されたという。
当寺は通称「毘沙門さん」と呼ばれるが、それは毎年旧暦1月7日~9日に開催される「毘沙門天大祭」が有名で、50万人ともいわれる参詣客があるからで、このときに行われる「だるま市」も日本三大だるま市の1つとして喧伝されるほど有名となっている。このため、下記リンクのHPのほか、多くの資料等で「毘沙門天」を本尊としているが、正しくは鎮守神である。寺自身の創建は17世紀であるが、鎮守の毘沙門天像は、伝承では聖徳太子作といい、あるいは平安時代の作であろうとされる。ただし、毘沙門天を当寺の鎮守とした由来は定かでない。一説に富士山修験に関係があるともいわれる。ともあれ、毘沙門天は、いわゆる四天王の一尊であるが、独尊としても信仰され、武家からは軍神として、庶民からは七福神の一尊として財宝神(特に勝負事の神様)として人気があった。街道(近世東海道)沿いにあって、徳川幕府・諸大名からの庇護も篤かったという。
さて、境内に「沓石」と呼ばれる霊石がある。建築関係で「沓石」というと柱などの礎石をいうが、この石は沓(靴、くつ)の形に似た石で、足の悪い人がこの「沓石」を撫でて祈ると霊験あらたかであるという。この石は、かつて昆沙門天がインドで悪魔を蹴り上げたとき、片方の沓(靴)が脱げ、それが日本に飛んできて石になったのだとされる。
それにしても、入口の鳥居に、和風・ネパール風・インド風・中国風の建物などが混然となった、面白い寺院である。


えび天さんのHP「オリエンタルムードが漂う毘沙門天妙法寺」


写真1:「妙法寺」毘沙門堂正面の鳥居。扁額には「南無妙法蓮華経」と刻されている。旧(近世)東海道に面している。


写真2:毘沙門堂。向かって右手のインド風?の建物は本堂・錬成道場


写真3:毘沙門堂の向かって左手、ネパール風の目玉が描かれた仏塔の前に「沓石」がある。


写真4:「沓石」
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