劔龍神社(けんりゅうじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町当山字上戸2。JR羽越本線「遊佐」駅前付近から国道345号線を約1.7km北上、山形県道371号線(菅里直世下野沢線)に入って道なりに約900m進むと、右手に赤い大きな鳥居が見えてくるので、その下を通って直進、約700m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創祀は大同元年(806年)。伝承では、当時、「鳥海山」に悪鬼が棲んで村人を苦しめていたことから、「大物忌神」が神剣を振るって悪鬼を切り裂いた。その際、頭が落ちたところに「鳥海山大物忌神社」の別当「龍頭寺」が建てられ、尾が落ちたところが「尾落伏村」(現・遊佐町直世落伏)と称されるようになったというが、ここに「剣龍山 剣積寺」が創始され、その宮殿(神社)に神剣が納められたとされる。現在も「鳥海山」に「稲倉岳」(1,554m)という峰があるが、ここは比較的初期の噴火で形成された峰で、古来から「鳥海山」の奥院または秘所とされていた(「稲倉岳」という名も、「大物忌神」と同神とされる倉稲魂命に因むという。)。悪鬼を両断した神剣は稲倉岳から飛び出たともいわれ、「鳥海山稲倉嶽剣龍山小物忌神社雲龍倉稲魂命の剣龍」と称し、「剣龍神社」の神体であるとされる。因みに、安永8年(1779年)に火災に遭い、本地仏の薬師如来像は焼失してしまったが、幸い「秘仏」といわれてきたものは難を逃れ、明治に入って「秘仏」の箱を開けてみたところ1口の剣がはいっていたという。こうして、当神社は、江戸時代には「剣龍山大権現」と呼ばれ、口碑に式内社「小物忌神社」であると伝えられてきたが、明治3年に「劔龍神社」と改めた。現在の祭神は大己貴命で、かつての本地仏・薬師如来から医薬の神を選んだものだろう。
なお、「剣積寺」は、慈覚大師の創建になり、延慶元年(1308年)に浄光上人が再興した天台宗の寺院(本尊:薬師如来)で、修験の宗坊6坊があり、学頭寺として「剣龍山 浄光院 剣積寺」と称し、「剣龍山薬師堂」とも呼ばれていたという。
玄松子さんのHPから(劔龍神社)
写真1:県道に面した大きな鳥居
写真2:参道途中にある「郷社 劔龍神社」という社号標
写真3:雰囲気のある参道は徒歩で直進、車道は右へ
写真4:鳥海山修験の神社に共通する参道の雰囲気
写真5:同上
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:真言宗智山派「剣龍山 剣積寺」入口
場所:山形県飽海郡遊佐町当山字上戸2。JR羽越本線「遊佐」駅前付近から国道345号線を約1.7km北上、山形県道371号線(菅里直世下野沢線)に入って道なりに約900m進むと、右手に赤い大きな鳥居が見えてくるので、その下を通って直進、約700m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創祀は大同元年(806年)。伝承では、当時、「鳥海山」に悪鬼が棲んで村人を苦しめていたことから、「大物忌神」が神剣を振るって悪鬼を切り裂いた。その際、頭が落ちたところに「鳥海山大物忌神社」の別当「龍頭寺」が建てられ、尾が落ちたところが「尾落伏村」(現・遊佐町直世落伏)と称されるようになったというが、ここに「剣龍山 剣積寺」が創始され、その宮殿(神社)に神剣が納められたとされる。現在も「鳥海山」に「稲倉岳」(1,554m)という峰があるが、ここは比較的初期の噴火で形成された峰で、古来から「鳥海山」の奥院または秘所とされていた(「稲倉岳」という名も、「大物忌神」と同神とされる倉稲魂命に因むという。)。悪鬼を両断した神剣は稲倉岳から飛び出たともいわれ、「鳥海山稲倉嶽剣龍山小物忌神社雲龍倉稲魂命の剣龍」と称し、「剣龍神社」の神体であるとされる。因みに、安永8年(1779年)に火災に遭い、本地仏の薬師如来像は焼失してしまったが、幸い「秘仏」といわれてきたものは難を逃れ、明治に入って「秘仏」の箱を開けてみたところ1口の剣がはいっていたという。こうして、当神社は、江戸時代には「剣龍山大権現」と呼ばれ、口碑に式内社「小物忌神社」であると伝えられてきたが、明治3年に「劔龍神社」と改めた。現在の祭神は大己貴命で、かつての本地仏・薬師如来から医薬の神を選んだものだろう。
なお、「剣積寺」は、慈覚大師の創建になり、延慶元年(1308年)に浄光上人が再興した天台宗の寺院(本尊:薬師如来)で、修験の宗坊6坊があり、学頭寺として「剣龍山 浄光院 剣積寺」と称し、「剣龍山薬師堂」とも呼ばれていたという。
玄松子さんのHPから(劔龍神社)
写真1:県道に面した大きな鳥居
写真2:参道途中にある「郷社 劔龍神社」という社号標
写真3:雰囲気のある参道は徒歩で直進、車道は右へ
写真4:鳥海山修験の神社に共通する参道の雰囲気
写真5:同上
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:真言宗智山派「剣龍山 剣積寺」入口
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