神が宿るところ

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法叡山 高岳院 圓福寺

2023-09-16 23:32:56 | 寺院
法叡山 高岳院 圓福寺(ほうえいさん こうがくいん えんぷくじ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田656。茨城県道181号線(宮ケ崎小幡線)「鳥羽田」交差点から東に約750mで左折(北東へ)、約450m。駐車場なし(境内まで自動車で入れる。)。ゴルフ場「オールドオーチャードゴルフクラブ」の南側。
寺伝によれば、弘仁3年(812年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)が奥州教化の帰路、阿弥陀仏の出現を見て開山したという。円仁は下野国(現・栃木県)生まれとされ、関東~東北地方には円仁を開山とする寺院が多いが、実際には事実ではないことが多いといわれる。当寺院の場合も、弘仁3年といえば、円仁はまだ「比叡山 延暦寺」で修行中のはずで、まだ得度もしていない(得度は弘仁6年とされる。)頃なので、ちょっと早すぎるのではないだろうか。当寺院の道路を隔てた西側に「鹿島神社」があるが、その由来碑によれば、室町時代の永享7年(1435年)に鳥羽田地頭・鳥羽田大隅守が当寺院を建立し、その寺内に常陸国一宮「鹿島神宮」の分霊を勧請した。そして、元禄12年(1699年)、水戸藩の命により当寺院と分離され、現在地に遷座したとしている。また、「鹿島神社」の北西側に伸びる台地に中世城郭の「鳥羽田城」があり(「鳥羽田(とりはた)」は、地元では「とっぱた」と称するといい、これは突端という意味だろう。)、俵藤太こと藤原秀郷の子孫である那珂氏一族の江戸氏の家臣・鳥羽田氏の居城だったとされるが、ゴルフ場の造成等で城郭の名残りは殆どなくなっているようである。
さて、円仁の開山云々は別として、十分に古い歴史を有し、相応に有力な寺院だったと思われる。現在は天台宗に属し、本尊は鎌倉時代の徳治2年(1307年)銘の造立銘札がある木造阿弥陀如来三尊像(茨城県指定有形文化財)である。他にも、室町時代作とされる絹本着色阿弥陀如来像(茨城県指定有形文化財)、平安時代末~鎌倉時代初期の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財。元は「水戸東照宮」別当の「大照院」の本尊で、明治初期に移されたものという。)も所蔵している。また、伝承では、当地が、浄瑠璃や歌舞伎で有名な小栗判官と照手姫の終焉の地とされ、その木像が安置された「小栗堂」もある。小栗判官は創作上の人物だが、そのモデルとなったのは常陸国小栗御厨(現・筑西市小栗)の小栗城主・小栗助重とされている。「小栗堂」は当寺院本堂の西側にあり、室町時代頃とみられる助重と照手姫の等身大の木製坐像が安置されているが、元々は単に比丘(僧)・比丘尼(尼僧)像で、助重と照手姫に仮託されたもののようである。これらの像は、かつて鳥羽田の「竜含寺」(廃寺)にあったが、「竜含寺」には檀家がなく、傷んだ坐像の修理の費用も工面できなかったため、江戸に運んで浄財を募って修理し、後に当寺院に移されたという。


茨城町商工会のHPから(天台宗 圓福寺)

茨城町観光協会のHPから(木造阿弥陀如来三尊像)


写真1:「圓福寺」寺号標(「天台宗法叡山高岳院圓福寺」)と参道石段。本堂正面(南側)だが、こちら側からは入りにくく、西側の舗装路から入るのが普通。


写真2:山門


写真3:本堂


写真4:収蔵庫(木造阿弥陀如来坐像と絹本着色阿弥陀如来像が安置されている。)。


写真5:鐘楼


写真6:旧本堂


写真7:小栗堂


写真8:「鹿島神社」(場所:茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田663)鳥居と社号標。元は「八幡神社」だったともいう。


写真9:同上、拝殿


写真10:同上、本殿(覆屋)

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