神が宿るところ

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神護護国聖宝寺 慈徳山 萬蔵院

2021-06-05 23:38:12 | 寺院
神護護国聖宝寺 慈徳山 萬蔵院(じんごごこくしょうほうじ じとくさん まんぞういん)。
場所:茨城県坂東市生子1617。茨城県道24号線(土浦境線)と同125号線(中里坂東線)の「生子南(道正内)」交差点から24号線を西へ約550mのところで左折(南へ)、約650m進んだところで右折(西へ)、約170mで境内入口。境内が広いので、駐車スペースはあるが、駐車場は、県道から約400m南下したところ(「万蔵院東口」という石柱が立っている。)で右折(西へ)、約200m進むと東門に突き当たり、その付近に駐車場がある(本堂にも近い。)。
寺伝によれば、貞観12年(870年)、聖宝(理源大師)の開山という。当時、下総国猿島郡の中央に本尊を安置し、四方に八間(近代では約14m。なお、古代には「間」は長さの単位ではなかった。)の大道を通じ、門前に山伏を住まわせ、前街後街を作り、都から工人多数を移して、この地方の文化的中心を形成したとされる。その後の消息は長く不明となるが、大手門(山門)は室町時代建立のもので、観音堂は江戸時代の再建だが室町時代の様式を残しているとされる。江戸時代になると、徳川幕府により篤く庇護され、大名の格式を有する寺院とされて、当地方で最高の朱印地20石を受けていた。「総本山移転地常法檀林所」(本山の行務の代行、子弟の教育のための地方大学の役割を持つ学問寺)として多くの修行僧が出入りし、境内は6万坪、坊舎数十を有していたとされる。第52世・雄弁上人が享保10年(1725年)に「猿島阪東三十三カ所観音霊場」(巳年に開帳)を開き、当寺院はその第17番札所となっている。文化年間(1804~1818年)に火災に遭い、大手門と三重塔を残して焼失(なお、三重塔は明治33年に焼失)した。明治時代に入って廃仏毀釈により荒廃したが、真言宗豊山派総本山「長谷寺」(現・奈良県桜井市)から特命住職として第72世中川大俊僧正が入寺し、再興したとされる。なお、寺宝として平安時代~鎌倉時代などの仏像や法具などがあるが、これは廃仏毀釈により破却された「筑波山 知足院 中禅寺」(「筑波山 大御堂」2020年9月26日記事)から移したものである。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は胎蔵界大日如来。
蛇足ながら、聖宝(理源大師)(天長9年(832年)~延喜9年(909年))は、空海(弘法大師)の孫弟子に当たり、寛平6年(894年)に「東寺長者」(東寺の真言宗最高位)となる名僧で、真言宗醍醐派総本山「醍醐寺」(京都市伏見区)を開山して当山派修験道の祖とされる。聖宝が当地に来ていたかは不明だが、当寺院開山のときに「門前に山伏を住まわせた」というところに、修験道の影響が窺われる(なお、聖宝が「醍醐寺」を開いたのは貞観16年(874年)とされる。)。逆に言うと、(理由は不明だが)当地に修験者(山伏)が集まり、開山を聖宝に仮託したのではないか、とも思われる。


萬蔵院のHP


写真1:「萬蔵院」境内入口と寺号標(「慈徳山 萬蔵院」)。とにかく境内が広い。


写真2:長い参道の途中にある「蔵修息遊」碑。学問で守るべき4つの道を示したものという(「礼記」に因む。)。


写真3:大手門(山門)。元亀2年(1571年)の建造で、現存建造物中で最古のものという。


写真4:本堂。文政11年(1828年)建立。


写真5:本尊:胎蔵界大日如来


写真6:観音堂(観音堂本尊:十一面観世音菩薩)。享保8年(1723年)建立で、坂東市指定文化財。


写真7:弘法大師堂


写真8:宝塔


写真9:多数の石碑、石仏。このほかにも境内には多くの石造物がある。


写真10:南門
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