神が宿るところ

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薩摩土手

2010-12-28 22:15:39 | 史跡・文化財
薩摩土手(さつまどて)。
場所:静岡市葵区籠上地先。JR「静岡」駅から県道27号線(井川湖御幸線)を北西に約3km進み、「妙見下」交差点の少し先。駐車場なし。
「薩摩土手」は、徳川家康公が慶長10年(1605年)に将軍職を譲り、大御所政治の中心となる「駿府城」整備・拡張工事を行うのに伴って、安倍川の治水工事として築堤が行われたもの。全国の諸大名を動員して行う、いわゆる「天下普請」として行われ、特に薩摩の島津忠恒が運び込んだ大量の石・材木で築かれたことから、「薩摩土手」と呼ばれるようになった。井宮の妙見神社前から、弥勒まで約4kmの堤が築かれ、それまで別々に流れていた安倍川と藁科川が合流することとなった。これによって、いくつかの枝川に分かれて「駿府城」付近を含めて東に流れていた安倍川の流れを一本化し、全体に西側に移動させた上で、単純に北から南に流れるよう企図したものである。現在では、更に西側に堤防が作られたため、ほとんどが取り壊され、跡地が「さつま通り」という道路となった。
「井宮の妙見神社」というのは、現在の「井宮神社」。徳川家康公は若い時から妙見大菩薩を尊信しており、「駿府城」を居城とした際、三河国「内津山妙見寺」(どの資料を見ても「三河国」となっているが、現・愛知県春日井市所在の寺院と思われるので、「尾張国」が正しいと思われる。同寺は式内社「内々神社(うつつじんじゃ)」と神仏混淆となっていた。)から妙見菩薩を勧請して、同名の「妙見寺」を建立した(慶長13年(1608年)創建。「建穂寺」の末寺となった。)。この「妙見寺」には妙見社があって、北辰妙見尊(北斗七星を神格化したもの)が祀られていた。井宮は水神で、現在の「井宮神社」は、市杵島姫命と瀬織津姫命を祭神としている。「薩摩土手」の守り神としたものだろう。

「薩摩土手」の下にある水道町の「川除地蔵堂」は、傍らの説明板(昭和61年)によれば、「約760年前の9月、大洪水があって、堤防が破れそうになった。水利方役人は地蔵尊を堤防に安置して治水を祈願し、防水に努めた。そこに1人の老僧(六部)が現れ、人柱になることを申し出て、念仏を唱えながら堤防の中に埋った。そのおかげか危機を脱した。それまでは厄除地蔵尊と呼ばれていたが、爾来川除地蔵尊と呼ばれるようになった。」(要約)という。

「薩摩土手」には、かつて「人焼場」(火葬場)があり、「火屋土手(ひやんどて)」(火屋は火葬場のこと。)ともいった。現在の「田町南公園」のある辺りで、江戸時代には囚人墓地があった。「火屋土手」には奪衣婆(三途の川で亡者の衣を奪う老婆。亡者の衣の重さの軽重で業の深さを量るという。)を祀る「奪衣堂」があり、その奪衣婆像を「火屋の婆さん」といった。その表情が物凄く、子供が悪さをすると、「火屋の婆さんの所に連れて行く」と脅かされたという。この像は昭和15年の静岡大火で焼失してしまったらしい。現在、「田町南公園」には「桔梗地蔵菩薩」が祀られており、その石像の隣に、天保11年(1840年)の年号が刻まれた「火屋再建立」の石碑も立てられている。(参考文献:朝比奈清「さつま通り」(昭和53年12月))


静岡河川事務所のHPから(安倍川の歴史)。「薩摩土手」設置前の安倍川の流れの想像図を掲載:http://www.cbr.mlit.go.jp/shizukawa/01_kasen/01_abe/history.html


写真1:「井宮神社」(場所:静岡市葵区井宮町181。駐車場あり)


写真2:「井宮神社」鳥居の裏側から「薩摩土手」を見る。


写真3:巨大な「薩摩土手之碑」


写真4:水道町の「川除地蔵堂」。人柱伝説を伝える。


写真5:「田町南公園」の「桔梗地蔵菩薩」。地蔵尊の名は、元はこの辺りが「桔梗原」という荒地であったことによる。「田町南公園」は、十字路交差点の4つの角が公園になっていて、珍しい形。(場所:静岡市葵区田町五丁目)




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