神が宿るところ

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伝 平国香供養塔(茨城県龍ケ崎市)

2021-12-11 23:29:11 | 史跡・文化財
伝 平国香供養塔(でん たいらのくにかくようとう)。
場所:茨城県龍ケ崎市川原代町1058-1。茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)「馴柴小入口」交差点から南東へ約40mで右折(南西へ。「城西中学校→」の案内看板があるところ。)、約350m。「城西中学校」南東付近。駐車場なし。
「伝 平国香供養塔」は、花崗岩製の石造宝篋印塔で、高さ228.3cm×幅90.8cm×奥行90.8cm。伝承によれば、「平将門の乱」の折、平将門と平国香(将門の伯父)らが承平5年(935年)に「藤代川の合戦」で戦い、国香が戦死したため、天慶年間(938~947年)に平貞盛が父・国香の菩提を弔い、民心を安定させるために、現・龍ケ崎市川原代に「安楽寺」を、現・龍ケ崎市小通幸谷町に観音堂を建立したとされ、「安楽寺」に供養塔(一説に墓)を建てたという。この供養塔(宝篋印塔)の特徴として、全体にどっしりとした重量感があること、笠の軒に緩い反りがあること、笠上部に7段・下部に5段の細かい階段がつけられていること等があり、これらを全体的にみて、鎌倉時代後期頃(1262年前後?)のものと推定されている。ということで、平国香の墓ではなく、供養塔としてもかなり時代が下ってからのものとみられるので、国香を供養したものとするのは難しいようである。ただし、このような形式の石造宝篋印塔は珍しく、軒反りのあるものとしては関東最古とみられる優品として、龍ケ崎市指定有形文化財(美術工芸品)となっている。
なお、「藤代川の合戦」で平国香が戦死したというのは、江戸時代の通俗軍記物語「前太平記」によるもので、「藤代川」というのが当地付近の小貝川を指すとされることから、国香が当地で亡くなったという伝承ができたようである。「将門記」も軍記物語で、史料としての信頼性は必ずしも高くないが、成立時期は11世紀頃とされていることから、まずはこれを信じるとすると、将門に敗北後、国香は本拠地とされる現・茨城県筑西市東石田の居館で自害したか、居館に火を放たれて焼死したとみられる(因みに、同地には「国香の墓」とされる場所が数ヵ所ある。)。「前太平記」では、最初から将門を逆賊とし、本拠地とした現・茨城県守谷市~取手市から常陸国府(現・石岡市)に進攻したのを乱の始まりとしているので、「藤代川」で合戦があったと想定したらしい。このような事実誤認があるため、「前太平記」は信頼性が非常に低いと考えられる。
ところで、この供養塔(宝篋印塔)にはヒビが入っているが、これは刀傷だという伝説がある。これが墓石と思われていた昔、ある人が通りかかると、この石塔の影から亡霊が現れた。恐れ慄き、亡霊に切りつけたが、よくよく見ると、石塔に真新しい刀傷がついていたという。

恵雲山 蓮華院 安楽寺(けいうんさん れんげいん あんらくじ)。
場所:茨城県龍ケ崎市川原代町1051。「伝 平国香供養塔」から北西へ約130m。駐車場有り。
現在は天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。寺宝として「総州相馬郡河原代安楽寺」及び「文和二年」(1353年)という銘の鰐口があり(茨城県指定文化財)、南北朝時代には隆盛だったことが窺われる。天正16年(1588年)、下妻城主・多賀谷政経と足高城主・岡見宗治が合戦となり、敗れた岡見宗治は当寺院に逃れて裏門から舟に乗って落ち延びたと伝えられ、そのときの戦火で堂宇・寺宝・記録の多くを焼失したという。江戸時代、貞享年間(1684~1688年)の住持・舜義法印が堂社を建立し、常夜念仏を起こして中興の祖となったとされる。

清水山 慈眼院 観音寺(きよみずさん じげんいん かんのんじ)、通称:小通観音(ことりかんのん)
場所:茨城県龍ケ崎市小通幸谷町7-1。茨城県道208号線(長沖藤代線)「文巻橋」交差点から東へ約250mで右折(北へ)、約150m進んだカーヴのところを右折(西へ)、約70m突き当り(行き止まり)。駐車場なし。
慶長3年(1598年)に牛久城主となった由良国繁が戦死者らの供養のため七観音八薬師(堂)建立した際、当観音堂は「清水山 慈眼院 観音寺」と改められた。本尊の十一面観世音菩薩像は恵心阿闍梨の作とされ、眼病に霊験があるとして参詣者が多かったという。江戸時代は真言宗だったが、明治時代に入り無壇無禄寺院としていったん廃寺となるも、七観音八薬師の由緒を以って曹洞宗「太田山 金龍寺」(現・龍ケ崎市若柴)の末寺として再興された。


写真1:「伝 平国香供養塔」。正面左側から見る。


写真2:同上、裏面左側から見る。塔身の四方にキリーク(阿弥陀)、アク(不空成就)、ウーン(阿閦)、タラーク(虚空蔵)の金剛界四方仏が彫られているというのだが、よくわからない。


写真3:供養塔の後ろにある「大乗妙典六十六部供養塔」


写真4:「安楽寺」境内入口。供養塔のある場所は、現在は「安楽寺」の飛び地だが、かつては境内の一部だったとみられる。


写真5:同上、本堂


写真6:「慈眼院」境内入口


写真7:同上、境内社「水神宮」


写真8:同上、観音堂


写真9:同上、弘法大師堂(「新四国六十七番」とあるが、どの大師講なのか不明。)
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