神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

見龍山 円通寺

2016-02-06 23:10:45 | 寺院
見龍山 円通寺(けんりゅうさん えんつうじ)。
場所:山形県酒田市麓字楯の腰50。国道344(&345)号線「酒田市観音寺」交差点から東に約700mの交差点(信号無し、横断歩道有り)を左折(北へ)、水路に沿った狭い道路を約170m進んで、右折(東へ)約100m。突き当たりの左手。駐車場有り。
寺伝によれば、当寺は「日本三代実録」貞観7年(865年)の記事にある定額寺「出羽国 観音寺」を前身とし、天和3年(1683年)に越前国滝沢村出身の大叟禅乗(たいそうぜんじょう)大和尚が当地を訪れ、山根(現・酒田市麓、八幡小学校の北側付近?)に開山した。寛保2年(1742年)に火災で焼失、翌年に現在地に移転・再建されたという。現在の宗派は曹洞宗、本尊は聖観世音菩薩(室町時代?)だが、庄内三十三観音霊場第11番札所となっていて、札所本尊は準胝観世音菩薩という。
当寺の背後の山は通称「楯山」といい、中世には清原氏の後裔を称する来次氏が「観音寺城」(「来次城」)を築いたと伝えられる。来次氏は清原氏一族の清原時衡を祖とし、「後三年の役」で清原家衡・武衡と共に戦ったが、戦列を離れて「羽黒山」に入山し、山伏となった。その後、20代を経て、戦国時代中期になると、来次氏房が武士として再興を図り、古楯に居館を築いた(現・酒田市観音寺字古楯。八幡小学校付近)。氏房の子・時秀は、平地の居館では防備が弱いと考え、元亀元年(1570年)頃、山城の「観音寺城」を築いたとされる。時秀の子・氏秀の時代にかけて、「観音寺」も来次氏の菩提寺として栄えたとされるが、氏秀は最上義光、上杉景勝らによる庄内の領地争いに巻き込まれ、終始上杉方について戦ったが、結局、「関ヶ原の戦い」の結果、敗北した上杉景勝の出羽国米沢への減移封に従い、米沢に移った。そして、「観音寺城」は慶長20年(1615年)、「一国一城令」により破却されたという。
ところで、当寺の東、約180mという近さのところに「飛澤神社」(2014年12月27日記事)がある。同神社は式内社「小物忌神社」の論社の1つで、貞観13年(871年)に「鳥海山」が大噴火した際、その神霊を鎮めるために「天降堂」を建てて祀ったのが始まりとされる。この社伝が正しければ、「観音寺」が定額寺になった少し後の創建になる。また、「天降堂」という地名は現在も「楯山」の西麓にある。そこに「天降神社」があって、今は石祠のみだが、境内?に「観音寺城跡」の説明板が設置されている(が、この付近には登り口がないようである。)。しかし、「飛澤神社」にしても、「円通寺」にしても、貞観の後の歴史がすっぽりと抜けている。勿論、これはやむを得ないことではあるが、式内社、定額寺であることの証拠に乏しいのが残念である。特に、「観音寺」という名の寺院は全国に多数あって、ある意味ありふれた名前である。地名だけなら、山形県東根市にもある。ただ、当地が、「城輪柵跡」(平安時代の出羽国府と推定)、「堂の前遺跡」(同、出羽国分寺)、「八森遺跡」(出羽国府の一時移転先?)などと近い距離にあるため、あるいは...と思わせる。


写真1:「円通寺」


写真2:同上、山門は「観音寺城」の裏門を移設したものといわれる。


写真3:同上、遠景。背後の山が「楯山」で、「観音寺城跡」がある(といっても、現在は築堤や通路の跡が残る程度。)。


写真4:「天降神社」入口。社号標があり、奥に赤い鳥居も見える。写真左手の説明板は「観音寺城跡」のもの。


写真5:「天降神社」と思われる石祠
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