神が宿るところ

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二丁町遊郭

2010-12-24 20:03:30 | 史跡・文化財
二丁町遊郭(にちょうまちゆうかく)。
もちろん現存していないが、かつて、現在の静岡市葵区駒形五丁目辺り、「静岡県地震防災センター」を中心とする地区にあった。このブログの趣旨からすると、寄り道が過ぎるかもしれないが、せっかく石碑などもあるので、見に行った。
有名な江戸の吉原遊郭は、駿府の遊郭の一部が移転してできたもので、駿府に5町あったうちの3町(7町のうち5町、という説もある。)が江戸に移ったので、駿府に残ったのが2町という意味で「二丁町」と称された、という説明が流布している。しかし、元々遊郭の広さが2丁四方(1丁は約109mで、約47,600㎡)だったから、というのが正しいように思う(漆畑弥一著「駿府の花街」(「ふるさと百話3」(昭和46年12月)所収))。正式には「安倍川町」だったが、もっぱら「二丁町」で通用したらしい。「二丁町遊郭」は、徳川家康公が駿府城で大御所政治を始めると、城の増築や安倍川の治水工事などで職人・工夫などが大勢集まり、女を巡る争いが絶えないようになった。その対策として、家康公が、長年仕えた鷹匠の伊部勘右衛門が高齢で退職するに当たり、安倍川町の土地1万坪を与えて遊郭を作らせ、支配させた。伊部勘右衛門は京都・伏見の出身で、伏見から遊女を呼び寄せ、自ら「伏見屋」という遊女屋を開いた、という。遊郭となった土地は、元は耶蘇寺(キリシタン聖堂)があったところで、禁制後は取り壊されて不浄の地とされていた。
家康公が亡くなると政治の中心は江戸に移り、「二丁町遊郭」の規模も縮小された。しかし、東海道の「二丁町遊郭」の名はよく知られていて、滝沢馬琴の「羈旅漫録」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(いずれも享和2年(1802年)刊)にも採り上げられている(十返舎一九は駿府生まれ(現・葵区両替町一丁目に碑がある。)だから当然か。)。安永9年(1780年)の「細見」(ガイドブック)によれば、遊女屋が10軒、引き手茶屋が10軒あったという。
「二丁町遊郭」は、明治以降も存続したが、第二次世界大戦の静岡大空襲(昭和20年6月)により完全に焼失し、その後再建されなかった。現在では全く遊郭の面影はないが、駒形五丁目に鎮座の「稲荷神社」が「二丁町」町内にあったものといわれる。境内の「双街の碑」が「二丁町遊郭」の由来を伝えている。なお、この「稲荷神社」のことを、資料によっては「大鳥神社」としているものがある。前出「駿府の花街」によれば、天保の飢饉のときには駿府(府中)の人口も約1万5千人まで減少し、遊女屋も2軒だけになった。町内の稲荷神社も、残った1軒の「若松屋」の屋敷内にあったものだけとなり、これが現存する「稲荷神社」であるとする。一方、小長谷澄子著「静岡の遊郭 二丁町」(2006年12月)には町内の地図が掲載されているが、明治15年のものでは「稲荷神社」、昭和初期のものでは「大鳥神社」となっている。「11月にはくじ引きがあって、大変な人出になった」とも記されているので、昭和の初めに客寄せのために、江戸・浅草の「鷲神社」の「酉の市」を参考にして始めたことではないかと思われる。もしそうだとすれば、「新吉原遊郭」からの逆輸入、ということになろう。


写真1:「安倍川公園」内にある「キリシタン聖堂跡」の石碑(場所:静岡市葵区川越町1。「静岡県地震防災センター」の西側)


写真2:「稲荷神社」(祭神:保食神。場所:静岡市葵区駒形通5-10-16。「静岡県地震防災センター」の東側)


写真3:境内にある「双街の碑」。「双街」は「二丁町」を指す。撰文は当時(明治27年)の静岡県知事小松英太郎による。

コメント (2)
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