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織田信長が比叡山の僧侶を殺害した理由は?

2019-12-09 14:33:17 | 歴史

最近、外国人が多く、日本に住みだしたが、日本は将来、なくなるのか。

しかし、戦後、日本を高度成長させたのは、日本語を話すというアイデンティティが大きな原因だった。

 

 たとえ、外人が多く住みついても、日本語さえしっかりしていれば、大丈夫だと思えてきた。

 

日本は昔から、歴史を大切にする。大事に保管する。他国より秀でている一面だという。江戸時代の広重の鴨川の風景に等間隔に座っている人がいる。今も同様。

 

竹村公太郎著  『幸運な文明』

 

 

1 なぜ、信長は徹底して比叡山の僧侶を虐殺したのか?

 

 

「地形から比叡山焼き討ちを見ると、その疑問はあっという間に解ける。

 

信長は逢坂と比叡山の地形に心から怯えていた。恐怖に駆られた信長は徹底的に抹殺せざるを得なかった。

 

 比叡山は京への侵入口の逢坂を見下ろしている。日本の峠越えはどこも狭い。軍の隊列は細長く伸びきる。

織田信長はそのことをよく知っていた。

 12年前、少数の信長軍は桶狭間の戦いで、、大軍の今川義元を討ち取った。桶狭間はまさに山中であった。桶狭間の山中で今川隊が伸びきったところを、大将隊をのみ狙って襲撃したのだ。

 

 戦国の世を制するには、上洛しなければならない。上洛するには、狭い逢坂峠を越えな変えればならない。その逢坂峠では、比叡山の僧兵が山猿のように俊敏に飛び、駆け巡り、侵入者を手ぐすね引いて待ち構えている。

 

 狭い逢坂峠は桶狭間を思い起こさせた。

 

 京への入り口である逢坂峠を自由に行き来する。それが、信長の比叡山焼き討ちの目的。

焼き討ちの後、信長は足利義明を追放して、室町幕府を崩壊させた。比叡山からの僧兵は消え、逢坂を行くときに義明を盾にする必要がなくなったから」と。

 

実際、逢坂に行くと、比叡山はこちらを見下している感じがする。

 

歴史の専門家からはなかなか分からない視点だろう。

僕は、信長は高いものに憧れたのではないかと思う。

信長の安土城はかなり高い。自分が最高と思っている人にとって、自分より間近に高い所で威張っている僧侶に腹を立てたのではないか。

 

 

2  なぜ、日本は車を進化させず、1000年以上の道路整備を空白にしたのか?

 

 

 「ローマ帝国はアッピア街道という壮大な道路がある。四頭立て馬車を乗りこなせる。街道を支えた動力は牛と馬だった。

 

 それに対して、日本は車を進化させず、1000年以上の道路整備を空白にした。

 

 

 梅棹忠夫氏は、日本人は家畜を去勢しなかったからだ、という。

 

  日本人は、牛や馬に名を与え、家族同様に扱った。家族であれば、去勢はされない」と。

 

去勢しない牛が引く牛車は、人混みの中では危険。平安絵巻に出る牛車の三分の一が暴走している。たった一頭の馬を六人の車副(くるまぞい)で制止している絵もある。

 

 

 

江戸時代になると、牛馬は江戸図屏風から消える。

 

 日本人は牛や馬を動力として制御することに失敗。

動力のない車は、日本文明の中心から消えた。鞍馬が消えれば、道路整備は行われない」と。

 

 僕は、ペット好きの人は子供のように声を掛ける。病気すると、かなりの費用をかけて、薬を買う。

牛や馬も平安の昔からペット扱いで、去勢をすると、かわいそうだ、という優しい気持ちがある。

 

この優しさは世界で、日本が一級品ではないかと思う。

 

 

3 江戸時代から洪水を止めるには、ある場所を犠牲にするしかない?

 

 「浅草は江戸の治水の最重要拠点で、江戸文化の中心だった。

 

  治水の原始的かつ最も基本的な手法は、ある場所で水をあふれさせる、ことである。

 

 ある場所で洪水が溢れれば、それ以外の場所は助かる。ある特定の場所で洪水を溢れさせる手法は、時空を超えた治水の第一原則である」と。

 

江戸時代から、浅草を大事にして、洪水をおこさせないように設計したとは。

 

 

 「徳川幕府は浅草寺に注目。浅草寺が1000年以上の歴史を持っていることは、この一帯で最も安全な証拠。浅草寺を治水の拠点にした。

 

 1620年、幕府は江戸堤の建設を全国の諸藩に命令。浅草から三ノ輪の高台まで高さ3m、堤の道幅は8mという大きな堤が、80余州の大名たちに60日余りで完成させた。

 日本中の大名たちがこの堤の建設に参加したので、日本堤という。

 

 遊郭を日本堤に移転させたことで、人々の往来で日本堤を踏み固める。行き交う江戸市民の視線が、日本堤の不審な変状や出来事を発見する。

江戸市民が知らず知らずのうちに河川管理者になり、日本堤を強化し、監視していたのである」と。

 

江戸時代の奉行はなかなか頭がよい。そんな歴史を思いながら、浅草あたりを散策したい。

 

 

 4 赤穂浪士の討ち入りは幕府の暗黙の了解があった?

 

 「警戒厳重な麹町に、16名もの赤穂浪士がまとまって潜伏。これは、江戸幕府の暗黙の了解がなけれればありえない。

 

 吉良上野介の屋敷は、今の東京・八重洲口、外堀の内側の北町奉行所の近くにあった。警戒厳重な郭内にあった吉良の屋敷が、墨田川の対岸の回向院の裏へ移転させられた。当時、この辺りは水はけが悪く、寂しい場所だった。この幕府による吉良家移転は、討ち入りしなさい、と言われているようなものだ。

 

 赤穂浪士の討ち入りは、徳川幕府の了解のもと、いや、幕府の支援のもとに行われたのでないか。

 

 

  四十七士は重大な犯罪者だった。その犯罪者が埋葬された寺が、家康の創建した泉岳寺だった。

 

  四十七の泉岳寺への埋葬は、徳川幕府が仕掛けだった。

 徳川幕府の指示で、四十七士の埋葬地に泉岳寺が選ばれた。ここに埋葬するうことで、四十七士の忠義が明確に表現される。

 

 江戸幕府誕生から100年経った元禄時代、全国の大名の幕府への忠誠心は緩みつつあった。

 

 赤穂浪士の忠誠は、幕府にとっては都合よかった。忠誠心を広めるたことは、幕藩体制の強化になり、安泰につながる。そのために、徳川家に大切な泉岳寺に四十七士を葬った」と。

 

ぼくは、そこまでするなら、どうして、切腹を中止して、無罪放免してやらなかったのだろう、と思う。

 

それとも、四十七士は生きることより切腹がしたかったのかも知れないが。

自決の美があるから、太平洋戦争で多くの若者が死ぬことに貴さを感じたのかも知れないが。

 

5 なぜ、廃藩置県が抵抗なく簡単に行われたのか?

 

 「江戸時代、江戸からの強烈な情報発信システムが存在。書籍、言葉、絵画、芝居、服装、流行とあらゆる情報が江戸から発信された。日本列島の人々はその情報システムを受け容れていった。

 その情報システムとは参勤交代だった。

 

参勤交代は前田利家が家康に謀反をおこさないように、母親を江戸に住まわせた。諸大名も真似て、家族を江戸に住ませた。実質上の人質だった。

 

 諸大名たちは、二、三代すると、ほとんどが江戸生まれになる。大名が帰属する土地は自分の領地である。しかし、江戸生まれで江戸育ちの大名たちの心の帰属先、アイデンティティは江戸だった。

 

 1871年、廃藩置県が混乱なく行われた。諸大名アイデンティティが東京なので混乱はなかった」と。

 

 

大名の息子が世代を重ねるにつれて、自分の生まれ故郷に希薄になる。

 

 

 

6 元寇は台風のせいで、日本を救ったというが、たとえ、台風がなくともモンゴル軍は日本を征服できなかった? 

 

 

「北方騎馬民族は一気に南下する。この猛烈な勢いで攻められると、逃げるところなどない。すべてが焼き払われ、虐殺と強奪に。

 

 壮大な万里の長城を建造した中国人の原動力は、この暴力への恐怖だった。

 

 対して、日本は島国ゆえに、侵略されず。

さらに、牛馬群の壮大なモンゴル軍が縦横無尽に日走り回る大地が日本にはなかった。

 日本にはぬかるんだ沼の土地が広がっていたからだ。

 

 福岡にも乾いた土地はあったが、起伏の厳しい丘と山であった。丘や山には木々の緑があった。鬱蒼と茂った木々の緑が、モンゴル軍の動きを阻んだ。

 日本のサムライたちは、丘の陰から不意に突き、

緑の藪の中から突然襲ってきた。そして、サムライたちは、泥のあぜ道をすばしっこく走り回った」と。

 

 日本の国土の90パーセントは山と高台である。

モンゴルの馬が駆け巡る平野はわずかだ。

 

 

7 日本のかつての風景を今一度?

 

 

 「東京は大戦で焼け野原になったが、皇居のたたずまいは残った。

 皇居周辺は最小限の手入れだけで、昔のの景観を保てた。

 

 広重が描いた江戸城と同じ風景が、21世紀の東京で目にすることができる。

 

 京都では、鴨川の四条河原で夕涼みの姿も広重は描いた。

 

 日本を訪れた韓国人たちは、世界最先端の近代文明の中に、何百年も変らない風景をを目撃する。

 

 韓国も急激な都市化で清渓川は氾濫し、不衛生な汚水で伝染病に。邪魔な清渓川はコンクリートで蓋をされ、道路になってしまった。

 

 600年前、李王朝時代の清渓川は、地下に消えた。

ソウルから歴史の光景と生活が消えたのである。

 

 そのソウルの人々が来日して、東京と京都で日本の暦氏を目撃して、失った歴史を取り戻したいと、感じた。その思いで清渓川復元をした」と。

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