太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

太陽の塔

2018-03-21 09:16:07 | 思い出話

学生時代は実に様々なアルバイトを経験した。経験というのは色んな意味で社会に出た時の予行演習であったような気がするからである。勿論当時は生活費を稼ぐことが目的だったので経験などとは思っていない。何よりも学園紛争の真っ只中で長期に封鎖されまともな授業など無く時間だけはあったがのバイトである。教養課程などロクすっぽ授業もなく促成栽培で過ぎてしまったので今でも教養に欠けるところがある。バイトで一番時給が良かったのは家庭教師であるが、週に何回かそれも夜のバイトである。普段は朝早く公営の学生相談所、バイトの斡旋所のようなものだが、に出掛けて壁に貼られたバイト募集案内を見る。自給が高くて楽そうな案件は当然学生の人気が高く競争となる。1か所に集まってジャンケンで勝者を決める。人気バイトにチャレンジするか、競争倍率の低そうな2、3番手を狙うか判断のしどころである。

中でも思い出深いのは70年大阪万博の時の迷子センターでのバイトである。家庭教師の親が銀行マンで、知り合いの大手広告代理店が万博で迷子センターに協力している、バイトしますかと紹介してくれた。夏休みを挟んで2カ月近くやった安定バイトである。ジャンケンの競争からも逃れられた。50年近く前であったが、迷子センターのシステムは実に良く出来ていた。初めに会場入り口付近で待ち構え、入場者で2,3歳の子供を見つけるとワッペンを胸に貼る。その半券を保護者に持って貰う。両方に同じ番号が記してある。会場で迷子が保護されても自分の名前を「さっちゃん」とか言う場合がある。多分サチコという名前だとは思うが。会場内には何か所も迷子を預かるブースが設置されている。ブースでは預かった子供の特徴がパソコンに入力される。センターではこれらデータにアクセスできるホストコンピュータがある。ブースに子供を探しに来た親が居るとブースからセンターに連絡があり、名前が分かれば何処のブースで保護されているかすぐ分かる。迷子ワッペンもなく、名前も言えない子供だったら赤いスカートとか入力すると何名かの該当者が分かる。最後はブース間でTVカメラで対面させる。1日で平均35万人、多い日はその倍くらいの入場者があったから1日に何百人もの迷子が出る。2カ月くらい働いたが100%見つけたと思う。家に帰った親から子供が帰っていないと電話が掛る事もしょっちゅうであった。その時は経路の駅で構内放送をして貰う、場合によっては事情を言って警察にお願いすることもあった。そのためバイトは深夜に及んだ。一人だけ小学生だったか会場の外に出て高速道路を歩いて事故に会った不幸はあったが。

親が見つかるまで預かる場所が必要なためセンターは託児所のような機能も持っていた。その為かスタッフは保育士とか広告会社の優しそうな女子社員が大半だった。かっこいい制服を着て美人揃いであったが仕事熱心な私は見向きもしなかった事実は加える必要がある。仕事は電話対応が主だったが大半は保護者からの問い合わせである。慌てまくっているから一方的に喋って来る。忙しい時は同時に3本くらいの電話に対応しなければならない。こちらはコンピュータにデータを入力するため訊きたい項目があるので、相手の話は聞き流してでも必要なことを訊かなければならない。相槌を打って対応する時間は無い。冷たく思われることもあっただろう。今でも役所の窓口なんかで職員の冷たそうな対応を耳にすることがあるが、全ての相手の事情を聞いていては時間が足りなくなるのだろうと一端の理解を示せるようになっている。社会にでてからも電話対応に苦労することはあまり無かったのはこの時の経験だろう。余談だが、センターのすぐ前の売店で男ばかりの我が学科の一部で絶大な人気があった薬学部の女の子を見つけた時は驚いた。軟式テニス部で色は黒いが目がパッチリで久保田早紀をふっくらさせたような可愛い子だった。友達を3人くらい介した知り合いではあるが互いに顔は知っていた。休憩時間に立ち寄ってコーラを飲んだ。アラッと向こうも驚いたがこちらもバイト中、休憩時間が終わってさっさと職場復帰したことも付記しておかなければならない。

バイトをしていたので万博入場のフリーパスが支給されていた。しかし当時の人気館は何処も見ていない。月の石だって見ていない。69年は学園紛争の最大要因だった安保闘争のピークであった。万博は国家権力と財界がつるんだイベントで反博だとかのシュプレヒコールもあった。万博の70年は学生運動も下火になりつつあったが去年の自分を思うと万博楽しむことは到底できなかった。あくまで生活のためのバイト先の一つであった。

最近記念公園にある太陽の塔内部の展示が修復され入館可能になったニュースがあった。岡本太郎氏のモニュメントである。毎日のように太陽の塔を見る機会があったが変な形だなあと思ったくらいで芸術性やら込められたテーマなど思いもよらなかった。懐かしさもあまり感じない。就職してから勤務先は奈良の天理になった。関西では有名企業だったがライバル他社が挙って万博にはテーマ館を建設したが、参加しなかった。聞く所によると一過性の万博に投資するより天理に新しい事業所を建設することに決めたとのこと。万博会場は元竹藪だった大阪の千里丘陵に建設されたが、千里より天理へがスローガンだったそうである。これは上手い。

随分後のことだが、筑波で科学万博が開催された。こちらは家から車で行ける距離であり家族を連れて何度か行ったが何の記憶も無い。愛知の花博も有った。一角を太陽電池システムの実験場にしていたので仕事の関係で何度か行ったが博覧会の方は全く記憶に無い。やはり万博と言えば70年大阪万博、太陽の塔である。



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