じゅりあれ日記

アメリカンコッカースパニエルのジュリア&アレックスとの
楽しい毎日・・・・・

あれから11年・・・・・

2006-01-17 12:38:32 | Weblog
阪神淡路大震災から11年経ちました。
去年は10年目ということでマスコミでも大々的に取り上げていましたが
11年目は静かなニュースです。

当時、我が家は尼崎に住んでいました。
ロンロンもまだ9ヶ月の赤ちゃんでした。
そのころはアレパパの会社の社宅に住んでいて
3階建ての2階部分に部屋がありました。

アレパパが3ヶ月ほど東京出張で家に帰れない状況で
子供を連れて実家に帰りたかったのですが寮長という役が回ってきて
どうしても長期で社宅を離れられないようになっていましした。
社宅には3棟あり、各棟に寮長が1人ずつ。

たまたま成人の日とかの連休もあり、3日間だけ実家に帰ることにしていた
私は、実家の父が14日の夜に迎えに来てくれて姫路に。
17日に帰るはずでした。

朝方ものすごい地震がおこりました。
実家の2階で寝ていた私は思わず飛び起きました。
その後、ニュースを見ると・・・・・
信じられない光景がつぎつぎと・・・・・
涙が出ました。社宅はどうなっているんだろう・・・・
早く帰らないと・・・・という気持ちは焦ります。
しかし、姫路から尼崎までは阪神高速も使えない。
とりあえず弟に車で送って貰う予定だったけど
姫路市内から道は混んでいて無理だとあきらめ引き返す。
社宅の友達に何度も電話をかけるがなかなか通じない。
やっとの思いでつながった電話に、寮長不在ということを伝えてもらう。
他の寮長さんにお願いするしかなかった。

22日ごろにやっと電車で乗り継ぎながら主人の両親と社宅へもどる。
ロンロンは実家の母に預けて3人で向かった。
主人は東京から社宅へと向かう。
電車は姫路神戸間は走ってないのでJR播但線で和田山まで出て福知山線に乗り換え
宝塚まで・・・・・電車の中は異様な感じ・・・・・
みんな救援物資とか持っている。外の光景も痛々しい。
あちこちの建物にはブルーシートがかかってるし
つぶれた家や、ビルの壁にはひびが・・・・・・
信じられない。

ようやく社宅に着いたときには主人のほうが一足先に到着していた。
なかにはいってみるとショック!
足の踏み場がないほど物が散乱していた。
2DKの社宅は築30年ほど。もともと狭い部屋なのでリビング兼寝室になっていた。
そこで本来なら寝ていたはず。
その部屋は本棚とかテレビ台、チェストがあって
今考えてもぞ~~~っとするけど、もしそこで寝ていたらきっと
怪我して動けない状態だっただろうし、ロンロンがどうなってたかは
考えたくない・・・・・・
というのも本棚は倒れ(もし寝ていれば足元部分)、破魔弓はケースごと壊れていたのでガラスの破片が
散らばってた。(それももし寝ていれば頭の部分・・・・・)
私たちは父のおかげで命拾いできたのかも知れない。

台所は食器棚の中に入ってる物はほとんど全滅。
お気に入りの備前焼もパァ~~!
ワインも壊れて、酔いそうなにおいの中での作業。
電子レンジは落下してるし、冷蔵庫は開けっ放し。
電話は受話器が落ちたまま。

どこから手をつけてよいものやら・・・・・
片付けに丸一日かかった。
その日はここに泊まって、翌日実家に戻る。
小さい子供連れてはとてもじゃないけど怖くて帰れない。
ましてや主人はいない・・・・・。
2月に入り、ようやく社宅に戻る。
しかし、毎日のようにゴ~~っと言う音と共に余震が・・・・
かなり恐ろしかった。

こんなときにロンロンは嘔吐下痢症(ロタウイルス)にかかり脱水症状で
入院・・・・・。同室の子供が気管支炎だった。
退院後1週間するかしないかで今度は気管支炎に・・・・またまた入院・・・・
私は疲労困憊で夜になると全身にじんましん・・・・・
ステロイドの点滴受けながら看病。
主人の母が着てくれて助かったけど、これがストレス倍増に・・・・・
とんでもない年でした。
未だに思い出す・・・・・
”●●ちゃん(アレパパ)がいなくて不安だった△△さん(私)
の気持ちが不安定やったからロンロンが病気になったんや・・・・”
その一言はきつかった。(グサァ~~~~ッツ)
退院後もしばらく主人のお母さんは居てくれて面倒見てくれた。
その間に言いたいことも言えるようになったし仲良しになれたのかもしれない。
雨降って地固まるとはこのことね。

なんだか長くなっちゃったけど
震災はその後各地で起こっている。
大きなニュースもたくさんあり過ぎて悲しくなる。
けれど、いつ、またこのようなことが起こるかもしれないので
危機感を持って生活していかなければならないと思う。