じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

ロボットスーツ

2006-09-17 23:56:31 | Weblog
★ 「情熱大陸」を見ていて、ロボットスーツに驚いた。ロボットスーツ、人間の筋肉を流れる微弱な電気信号を受け取り、それを増幅して手や足を動かす装置だ。はなはだ簡単に言えば、電動自転車みたいなものか。実物はもっともっと複雑だけれど。

★ それにしてもこの装置によって体の不自由な人がその不自由さから解放されるというのには感動した。ちょうど眼鏡や補聴器やあるいは入れ歯のように、体の不自由さを補うために簡単にロボットスーツを使える時代がもうそこまで来ているような気がした。

★ もちろん心配はある。その最たるものは軍事利用だ。軍関係者がこうした技術を見逃すはずがない。またロボットスーツを求めて争いが起こったり、結局は豊かな人だけがスーツを手に入れることができるようになりはしないか。機械の体を求める「銀河鉄道999」は一つの予言であり警告だ。

★ 技術と倫理の関係はいつも問題にされるが、いつの時代であっても人間には避けて通れない課題なのだろう。危惧は危惧として、体の不自由な人にとっては一刻も早い普及が求められる。またこうした技術は知的財産で立国しようとしているこれからの日本には欠かせないものである。大いなる発展を期待したい。
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児童の校内暴力

2006-09-15 18:02:42 | 教育
★ 児童の校内暴力が話題を呼んでいる。こうした統計は氷山の一角を表していたり、また統計の取り方、調査の仕方によって大きく数が変化するので、数字をそのまま鵜呑みにすることはできないけれど、一般的な傾向は読み取れる。

★ 児童の校内暴力は、はっきりいって家庭の問題だ。一つは親の養育態度であり、一つには親の経済状況である。

★ 児童虐待のニュースも後を絶たないが、あまりにも自己中心的な親が多い。もちろん背後には核家族や希薄な地域社会の問題があるけれど、それにしても一番大きいのは自分の生活をまずは大切にする親の姿勢だ。生活の不規則、特に夜型の生活や朝食を抜く生活習慣。これも親の責任である。

★ また経済格差は永田町の認識よりもはるかに深刻である。親が経済的に不安定なので、家庭に安定感がない。親がストレスを抱えているからそれが子どもにも伝播する。階層が固定化している傾向も深刻だ。昔ならたとえ今は貧しくとも今一生懸命頑張っていれば、豊かな生活を送れる可能性もあった。国立大学にも行けた。国全体が発展しているときは多数の人がその恩恵を受ける事ができた。でも今は企業も個人も自分が生き残る事に必死で、他人のことなど思いやってはいられない。非正規雇用の増加などはまさにそれの良い例だ。

★ 「負け組」は将来に夢がないから、どうしても刹那的になってしまう。子どもの教育への関心も薄れ、子どももそれを薄々感じとって、地道な努力や我慢ができなくなってきている。児童の校内暴力は社会の不健康さを示す一つのシグナルである。この信号をしっかり受け止めて対策を講じないとさらに大きな問題が起こるであろう。学力問題をやかましくいっても、底の抜けたザルになってしまう。
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職員会議

2006-09-14 14:05:07 | 教育
★ 卒塾生の大学生のレポートを手伝った。教職課程の「教師論」だそうだ。

★ 課題は職員会議の位置づけの問題だったので、久しぶりに専門書をひも解いた。職員会議の位置づけについては、法的な規定がないとか、その位置づけについては補助機関説、諮問機関説、議決機関説のあるのは知っていた。改めて整理すれば次のようになるようだ。

★ 職員会議の位置づけとは、結局、学校の意思決定をどの機関がするかという問題だ。つまり、校長を意思決定者とするか、職員会議の決定に校長も従うべしとするかである。

★ 文部省(文部科学省)の立場としては、学校教育法第28条③「校長は、公務をつかさどり、所属職員を監督する」という規定に基づき、学校の意思決定者は校長としてきた。補助機関説と諮問機関説の違いは、前者が校長の意思決定を最大限尊重するのに対して、後者は職員会議の決定を校長は尊重しなければならないとする点である。

★ 一方、「議決機関説」は、校長といえども職員会議の決定に従わなければならないとする考え方である。この考え方は憲法第23条(学問の自由)や学校教育法第28条⑥「教諭は、児童の教育をつかさどる」を根拠とするものであり、学校を教職員の自治組織とみなす考え方である。

★ 更には、学校の活動を内的事項(児童生徒の直接的な教育活動にかかわるもの)と外的事項に分け、内的事項については議決機関説をとるといった考え方もある。

★ 教育委員会が定める学校管理規則では、補助・諮問機関説をとっている。2000年1月に出された文部科学省事務次官通知では改めて補助機関としての位置づけをうたっている。

★ なるほど。いろいろと論議はあるものの要するに、背後には文部省(国)と教職員組合(従来なら日教組)との権力闘争があって、そのまた背後には自民党対社会党の権力争いがあったということだ。今では学校の性質も変わってきたし、文部科学省と組合も蜜月ムードだし、そもそも組合の組織率も下がる一方で、というところで最近はあまりこの論争は聞かない。いっそう法律で位置づけを決めてしまえば良いものを。会議は踊る。


参考文献
 日本教育経営学会編「講座日本の教育経営」第10巻「教育経営ハンドブック」より小島弘道「職員会議」ぎょうせい、1986年
 「解説教育六法2005」三省堂
 高野桂一編著「新学校経営基本用語辞典」より神田修「職員会議の法解釈論争」明治図書、1981年
 教職研修「論争点シリーズ」①「教育法規の論争点」より、平沢茂「職員会議は議決機関か」教育開発研究所、1994年
 教職研修「論争点シリーズ」②「教育経営の論争点」より、藤枝静正「職員会議は学校の最高意思決定機関か」教育開発研究所、1994年  
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武士の家計簿

2006-09-13 12:25:20 | Weblog
★ NHKの「知るを楽しむ」シリーズ「歴史に好奇心」で武士の家計簿が取り上げられていた。解説は「武士の家計簿」(新潮新書)の著者、磯田道史さん。

★ さすがに専門家の解説はわかりやすい。著者自身が研究を楽しんでおられるから、見るものにも面白さが伝わってくる。それにしても、働きすぎて借金が増えるというのは、武士というのも大変な身分だと思う。「武士は食わねど高楊枝」とは言うけれど、やはり食べなきゃ腹も減る。なまじ見栄があるだけ交際費もかさむ。

★ 「武士の家計簿」で取り上げられている加賀藩の会計役の一家はさすがに会計役らしく借金の返済法も見事だった。ただいくら返しても次の借金がかさむように社会構造ができているのでは、彼らの努力も焼け石に水だったのかもしれない。結局は社会の構造的な矛盾を解決しない限り、堂々巡り。借金に追われて生き続けなければいけないんだよね。この点は時代を越えて今も同じか。

★ 折りしも、自民党ではグレーゾーン金利をめぐり攻防が行われている。借りる方から言えば金利は安いほうがいい。15%でも破格に高い金利だ。27~29%などは、まさに高利貸しだ。もちろん自由市場だから、そんな高金利でも借りたい人がいるのも事実。問題はこの点だ。ワーキングプアと呼ばれる人々が増えている時代、その原因の一端は借金だろう。ちょっとした借金も返す段になると生活を圧迫する。するとまた借金をすることになる。そして雪ダルマ式に。

★ 借りたら返すのは当たり前。これは当然だけど、最近は大手銀行まで消費者金融で儲けている。大手ならそれなりに低金利で融資してくれてもいいのになぁ。儲かっているのだから。それに政府ももっと低金利で融資してくれる仕組みはできないのかなぁ。いつの世も、カネ・カネ・カネの世知辛い世の中だ。
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無用の用

2006-09-12 14:11:01 | 教育
★ 役に立たないとされていることがかえって役に立つこと。これを無用の用というそうだ。有用、無用と軽々しく判断すること自体、人間の浅はかさということだろうか。

★ ところで、子どもたちから「こんな勉強をしていて何の役に立つのか」とよく言われる。半分は、自分が問題を解けないことへのいらだちのようだが、その気持ちはわからなくもない。といって、くどくど説明しても聞く耳をもたないようなので、その場は「受験のためだ」とお茶を濁すが、本当は無用の用なのだ。

★ 私自身、大学生のとき同様なことを指導教官に尋ねたことがある。指導教官が言うに、「無用なことをやるのが学校なんだ」とのこと。この言葉は含蓄に満ちている。もちろん学校では将来生きていく上で必要なことを学ぶ。読み・書き・算もそうだし、人間関係やさまざまな経験、その中には悲しい事、悔しい事、嬉しい事、いろいろとあるだろうけれど、そうした人生経験の基礎を学んでいる。どれ一つとして無駄な事はない。

★ 因数分解や解の公式や平方根や更には微分、積分、三角関数。将来数学を使った仕事にでも就かない限り、学校を卒業したらお目にかかることは少ない。英語にしても、いくら国際化とは言え日常生活で英語を使う機会はそれほどないのが現実だ。理科にしても社会にしても学校で学んだ事を日常生活でどう生かすかというと難しい。国語でも古典や文法を学ぶ事にどういう意味があるのだろうか。そうした無駄な学習に多くの時間を消費する意味は何だろうか。確かに受験のための学習は虚しいものがあるが、それも怠け癖の人間にとって必要悪とするならば、学校での学習はまさに無用の用だ。

★ 国民の品位は教養の高さだと思う。民主主義といった制度をとるなら尚更、国民全体の教養が高くなければならない。そうでないと衆愚政治に陥る。そして、教養というのは無用の用だと思う。一見無用に見えて、実は人生を豊かにする上で、もっとも必要なものなのだろう。豊かな知識と広い視野は、ものごとを正しく判断する際に欠かせないものだと思う。

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座右の書

2006-09-07 03:40:51 | Weblog
★ どうしても身近に置いておきたい本と言うものがある。何か心が弱ってきたときにふとページをめくると、また「がんばろう」と立ち直れる書である。

★ 私の場合、三木清の「人生論ノート」、有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」、倉田百三の「愛と認識の出発」である。いずれも大正から昭和初期の作品であるが、私はこの時代がしっくりくる。「オーラの泉」流に考えれば、前世はこの時代なのかも知れないね。

★ 社会主義者から見れば、ブルジョアやインテリの知的遊びの作品なのだろうけれど、愛なら愛で、信仰なら信仰でよくここまで純粋に、理屈っぽく(必ずしも論理的ではないし、情緒的なところが魅力的だが)論じることができるものだと感心する。ちょうど学生時代、青っ白く「人生」や「愛」についてあれこれ考えているときに、こうした本に出会い、はまってしまった。

★ 三木清は哲学者で西田幾多郎の学徒でもある。当時としては新進のマルクスの思想にも通じていた。私は「人生論ノート」の中でも、彼自身が「大学卒業の直前に発表した幼稚な小論」と謙遜する「個性について」が好きだ。大学生時代、「生きる意味」について考えていた私にとってこの小編はまさに天使の差しのべた手であった。それ以来、私は次のような仮説を背負って生きている。「生きるとは創造であり、創造とは自己実現である。自己実現はいかにして可能か。それは愛によってである。愛とは他において自己を見出すことである」

★ この仮説は三木の「個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころをしらなければならない。愛とは創造であり、創造とは対象において自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して、対象において自己を生かすのである。」(「人生論ノート」新潮文庫146p)という文章の受け売りである。

★ 有島の作品では第16章がいい。「私の愛は私の中にあって最上の生長と完成を欲する。私の愛は私自身の外に他の対象を求めはしない。私の個性はかくして成長と完成との道程を急ぐ。然らば私はどうしてその成長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ」(「惜しみなく愛は奪う」新潮文庫、65p)

★ それに対して「与える愛」を説くのが倉田だ。倉田は「花のみよく花の心を知る」「自他合一の心こそ愛である」と述べた後で、「私は切に与うるの愛を主張したい。愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢るるものの包む感情である。人は愛せらるることを求めずして愛すべきである」(「愛と認識の出発」角川文庫、141p)と主張する。

★ シルヴァースタインだったかな、「おおきな木」という絵本がある。中学校の英語の教科書にも載ったことがあるけれど、それには「与える愛」が描かれていた。与えて、与えて、与え尽くして、それでも与えることに幸福を感じる大きな愛の姿に感動したものである。

★ 愛が奪うものか、与えるものか、あるいはそれは表裏一体のものなのか、未だにわからないテーマだけれど、こうしたことを考えるだけで少しホットな気分になれる。

★ 蛇足ながら、映画では「ブラザーサン・シスタームーン」にいたく感動したことがあったなぁ。聖人フランチェスコを描いた映画だけれど、愛の大きさを感じた。そういえば古い映画だけれど「汚れなき悪戯」にも感動した。マルせりーノという幼い男の子を主人公とした奇跡の物語だけれど、ジーンとくる映画だった。
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