じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

座右の書

2006-09-07 03:40:51 | Weblog
★ どうしても身近に置いておきたい本と言うものがある。何か心が弱ってきたときにふとページをめくると、また「がんばろう」と立ち直れる書である。

★ 私の場合、三木清の「人生論ノート」、有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」、倉田百三の「愛と認識の出発」である。いずれも大正から昭和初期の作品であるが、私はこの時代がしっくりくる。「オーラの泉」流に考えれば、前世はこの時代なのかも知れないね。

★ 社会主義者から見れば、ブルジョアやインテリの知的遊びの作品なのだろうけれど、愛なら愛で、信仰なら信仰でよくここまで純粋に、理屈っぽく(必ずしも論理的ではないし、情緒的なところが魅力的だが)論じることができるものだと感心する。ちょうど学生時代、青っ白く「人生」や「愛」についてあれこれ考えているときに、こうした本に出会い、はまってしまった。

★ 三木清は哲学者で西田幾多郎の学徒でもある。当時としては新進のマルクスの思想にも通じていた。私は「人生論ノート」の中でも、彼自身が「大学卒業の直前に発表した幼稚な小論」と謙遜する「個性について」が好きだ。大学生時代、「生きる意味」について考えていた私にとってこの小編はまさに天使の差しのべた手であった。それ以来、私は次のような仮説を背負って生きている。「生きるとは創造であり、創造とは自己実現である。自己実現はいかにして可能か。それは愛によってである。愛とは他において自己を見出すことである」

★ この仮説は三木の「個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころをしらなければならない。愛とは創造であり、創造とは対象において自己を見出すことである。愛する者は自己において自己を否定して、対象において自己を生かすのである。」(「人生論ノート」新潮文庫146p)という文章の受け売りである。

★ 有島の作品では第16章がいい。「私の愛は私の中にあって最上の生長と完成を欲する。私の愛は私自身の外に他の対象を求めはしない。私の個性はかくして成長と完成との道程を急ぐ。然らば私はどうしてその成長と完成とを成就するか。それは奪うことによってである。愛の表現は惜しみなく与えるだろう。しかし愛の本体は惜しみなく奪うものだ」(「惜しみなく愛は奪う」新潮文庫、65p)

★ それに対して「与える愛」を説くのが倉田だ。倉田は「花のみよく花の心を知る」「自他合一の心こそ愛である」と述べた後で、「私は切に与うるの愛を主張したい。愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢るるものの包む感情である。人は愛せらるることを求めずして愛すべきである」(「愛と認識の出発」角川文庫、141p)と主張する。

★ シルヴァースタインだったかな、「おおきな木」という絵本がある。中学校の英語の教科書にも載ったことがあるけれど、それには「与える愛」が描かれていた。与えて、与えて、与え尽くして、それでも与えることに幸福を感じる大きな愛の姿に感動したものである。

★ 愛が奪うものか、与えるものか、あるいはそれは表裏一体のものなのか、未だにわからないテーマだけれど、こうしたことを考えるだけで少しホットな気分になれる。

★ 蛇足ながら、映画では「ブラザーサン・シスタームーン」にいたく感動したことがあったなぁ。聖人フランチェスコを描いた映画だけれど、愛の大きさを感じた。そういえば古い映画だけれど「汚れなき悪戯」にも感動した。マルせりーノという幼い男の子を主人公とした奇跡の物語だけれど、ジーンとくる映画だった。
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1 コメント

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Unknown (哲学の道)
2006-09-10 16:45:59
はじめまして。

西田幾多郎をさがしていたらたどりつきました。



心のよりどころになる本、ありますよね。

私はミランクンデラの「不滅」かな。

あと最近読んだ本では大江健三郎の「さようなら、私の本よ!」が面白かったです。



与える愛、ラース・フォン・トリアー監督の映画などそんな感じですね。
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