じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

関西文理学院、廃校へ

2009-10-24 10:44:17 | Weblog
★ 「カンブリ」として親しまれた関西文理学院が来春廃校になる。

★ カンブリには辛く懐かしい思い出がある。1977年。私は大学受験に失敗した。当時の京都は高校三原則で、公立高校は純粋に高校教育を行い、大学受験への特別なサポートはなかった。そんな中、「一浪」は「ヒトナミ」と読みかえて、多くの卒業生が予備校へ通った。

★ 当時、京都大学への登竜門だった「近畿予備校」を受験したが、そのあまりの難しさに挫折。京都大学の近く百万遍に「駿台予備校」が進出してきたので、そこも受験したが、あえなく撃沈。結局、不合格の掲示を見たその足で「関西文理学院」へ向かった。

★ カンブリには入学テストがなかったので、あっさり手続き終了。私の浪人生活が始まった。

★ 烏丸鞍馬口。京都市地下鉄がまだ開通していなかったので、京都駅からはバスで通った。地下鉄工事のためこのバスはしばしば渋滞に巻き込まれた。

★ 烏丸五条のあたりにゲテモノを売っている店があった。グロテスクな看板を眺めていると、四条烏丸のオフィス街。烏丸通りにはパチンコ屋がないらしい。それは天皇が御所に向かう道だからとの理由を誰かから聞いた。

★ 御池の大きな通りを越えると、丸太町。幕末の歴史ゆかしい蛤御門が見える。この門で長州の猛者たちが戦ったのだと思いながら、今出川通り。同志社大学の校門にさしかかる。当時はまだ学生運動の残党が残っていたから、校門前にはハデなアジ看板が並んでいた。

★ 同志社中学の前を通り、成安中学を越えたら烏丸鞍馬口。これといった目印もないちょっとさびれたバス停だった。そうそう、近くに小さなスーパーマーケットがあったような。

★ 当時の予備校はどこからこんなに生徒が集まってくるのかと思うくらいの大賑わい。200人収容の教室がいくつも満杯になる。教壇の前には常連の人々が陣取り、私のような気弱な人間は中段より後ろに席を取る。隣に座った男の子は徳之島から来ていて、学院前の食堂に下宿していた。もう一人の隣は金沢から来た女子。当時は学生の街・京都を目指して多くの人々が上京していた。

★ 私と言えば、ストレスのためか偏頭痛に悩まされ、夏以降はサボり気味になる。担任の教師からは運動会など行事にも積極的に参加するようにとアドバイスを受けた。が、そんな気はなかった。寒くなるにつれて、今の言葉で言えば「ひきこもり」に近い状態になっていた。

★ 私が大学を受験したのは共通一次テスト前年。本命の私立大学には見事なまでに失敗し、二浪も覚悟したが、最後の最後に残った国立大学二期校(教育大学)に何とか合格できた。4月1日の合格発表。大逆転だと友人たちには言われた。

★ それ以降、カンブリを訪れることはなかったが、少子化や大手予備校が進出中で地元予備校の苦戦は聞いていた。少子化はやむをえないが、大手の台頭はセンター試験と言うデータで勝負をする時代がもたらしたものだ。

★ 時代の流れには抗しえないが、郷愁を感じる。 
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