goo

デカッ!!

 なんだか多少のことではびっくりしないようになってしまったが、これにはびっくりした。本当に大きな大きな消しゴム・・。
 中学生が持っていて、「何だ、これ!!」と叫びながら、矯めす眇めす見ていたら、「友達からもらったんです。欲しかったら上げますよ」と言う。特に欲しくもないが、持っていると自慢にはなるかな、とおバカなことを思ったので、「じゃあ、シャーペン2本と交換しようか」と交渉に入ったところ、すぐに「いいですよ」と簡単にまとまってしまった。

 で、これがその消しゴム。 


 でもこれだけじゃ、どれだけ大きいのかがよく分からないだろう。そこで、普通の消しゴムと大きさを比べてみた。



 う~~ん、これでも実感が伝わらないかもしれない。それでは、と小学生に頼んで、手で持ってもらった。


 これなら少しは伝わるかな、と思えるようになったが、あと少し物足りない。どうしたらいいかな、としばし考えたら、なかなかの妙案が浮かんできた。
 「顔の大きさと比べてみよう」
早速試してみた。


 小学5年の小柄な男の子なので消しゴムの大きさが誇張されてしまいそうだが、事実大きいのだからどうしようもない。これだけ大きいと使い道に困りそうだから、とりあえずしばらくの間は、机の上の落書きを消すのが一番の仕事になってしまいそうだ・・。




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桃と梨

 伯母から「藤岡に桃と梨の花が満開のところがあるから見に行こう」と誘われた。藤岡というのは近年豊田市に合併した村であり、私の家からそれほど遠くない場所であるから、「じゃあ、月曜に行こう」ということになった。
 しかし、私と妻はまったく場所を知らず、頼りは以前見に行ったことがあるという伯母のみ。少々心もとない案内人ではあったが、迷うことなく辿り着けたのは幸いだった。
 正直に言えば、私はさほど期待していなかった。「すごくきれいだから」と言った伯母を信じないわけではなかったが、誇張が入っているかな、と些かの疑念は持っていた。だが、聞きしに勝るとはこのことだ。現地に着いて驚いた。目の前いっぱいに桃の花のピンクと梨の花の白とが広がっている様は、まさに一大スペクタルと言ってもいいほど見事な光景だった。

 

 これほど広大な土地に桃と梨の木が植えてあるとは思わなかった。しかも一か所だけでなく、何か所もこうした果樹園が広がっているのだから、なかなかの壮観だ。

 

 

 

 少し興奮した私が「これはすごい!」と唸りながら写真を撮っているのを見ていた伯母が、「ホッとした。こんなに誉めてくれると嬉しい」と満足気に言った。
 ちょうど今は花粉付けで栽培農家の人たちは忙しいのだそうだ。確かにそこここで、一心に花粉付けをしている人の姿が見えた。


 秋になったら、収穫された桃と梨を買いに来よう、と伯母と約束した。
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初勝利!

 プロ野球日本ハムの斎藤佑樹投手がプロ初登板で勝利投手になりました。
ロッテ戦に先発 5回6安打4失点でチームが8対4で勝ちました。

 このところ、携帯に届くメールのほとんどが地震の発生を知らせるものばかりなので、「また地震か・・」と着信音に暗然としながら確認したところ、斎藤佑樹の初勝利を知らせるメールだと分かって、「やったな!」と嬉しくなった。4年前に息子が大学の同窓になって以来彼の活躍を常にチェックしてきた私としては、キャンプからオープン戦にかけてあまり評価が高くなかっただけに、初登板初勝利は思いがけない喜びとなった。やはり彼は何か持っている。
 試合後の彼への一問一答が載っていたので、記念に転載しておく。

 -初勝利、おめでとうございます
 斎藤 ありがとうございます。
 -ルーキーで一番乗りです
 斎藤 本当に北海道に来て良かったです。うれしく思っています。
 -どんな気持ちで今日という日を迎えましたか
 斎藤 待ち遠しく、長く感じましたが、勝ててホッとしています。
 -投手陣が後を抑えてくれた
 斎藤 5回しかもたず、後の4回を抑えてくれて感謝しています。
 -ウイニングボールはどうしますか
 斎藤 考えてないです。大事にしようと思います。
 -北海道の佑ちゃんになりました
 斎藤 早く北海道の一員だと認められるようにと思っていたので、1勝できて、一員になることができたと思います。
 -ファイターズファンにメッセージを
 斎藤 今日、北海道で1勝を飾れて良かったと思います。お立ち台に上がるのが前からの夢だったので、夢をかなえられた。5回4失点というふがいない内容でしたが、またヒーローインタビューに来られるように、頑張ります。


 
 斎藤投手の活躍は、どうしても息子とオーバーラップしてしまう。息子も新入社員として今月から頑張っているのだろうが、忙しいのかあまり動静が伝わってこない。社会人となった以上、親のことなど眼中にないのかもしれないが、私としては常に気にかけている。失敗はしていないだろうか、周りに迷惑をかけていないのだろうか、心配は尽きないが、何も連絡がないということは入社して2週間は何とかやっているからなのだろうと、勝手に思いこんでいる。
 斎藤投手も言っているように、周りの助けがあってこそやって行けるのだから、常に感謝の気持ちだけは忘れずにコツコツ頑張っていってほしい。
 私も負けずに頑張らねば!!
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「久しぶり!」

 友人の母親の葬儀に参列した。84歳の高齢ながら、前日まで元気だった人が布団の中で冷たくなっていたそうだ。
 お通夜は金曜夜の7時からだったが、私は塾があり出向くことができなかったので、妻が代わりに行ってくれた。香典も供物も受け取らないということで、「手ぶらで参列するのは少々気が引けた」と妻は言っていたが、それがその家の流儀なら従うしかない。徐々にそういう葬儀も増えてきたので、次第に慣れていくのだろうが、今しばらくは多少の違和感を持つことだろう。
 葬儀は土曜の1時からだったので、私が参列できた。12時まで授業を行い、生徒を送って行った後、慌てて家を出たら、何とか始まりの時間に間にあった。受付をしていた人たちが、皆友人だったので記名した後、受付の席に並んだ。
 しかし、この友人たちに会うのは実に久しぶりだった。同じ市内に住んでいながら、ここ数年は顔を会わせる機会がなく、最初の挨拶も「久しぶり」ばかり。皆それぞれが家庭を持ち、日々の暮らしに追われていると、葬式などという改まった席くらいしか、集まることできなくなった。個々には付き合いがあるようだが、私のように夜間に仕事をしているような者では、なかなか時間を合わせることが難しい。どうしたって皆から疎遠になってしまうが、それでもやっぱり一言ことばを交わせばすぐに昔に戻れるのだから、幼いころからの友人は有難いものだ。
 だが、やはり私たちも年相応に老けてしまった。話題はどうしても子供のことや老親のことになる。母親を亡くした友人は5年ほど前に父親を亡くしているから、これで親はいなくなってしまった。私も母親がいないし、両親とも健在な者の方が少なくなってしまった。まあ、50過ぎのおっさんたちだから、それも当たり前のことだろうが・・。
  葬儀が終わって出棺までの短い間に、友人の一人と話した。
 「お父さんは元気?」
 「いや、去年の暮れに死にかけた」
 「どうして?」
 「酒の飲み過ぎで血を吐いて、3か月入院してた」
 「本当か、知らんかった」
 「まあ、今は退院してボチボチやってるけどね」
 「調子はいいの?」
 「週に2回デイサービスに行ってる」
 「送り迎えしてもらって?」
 「そう。年寄りの男やもめはそういう所に行かなきゃ話相手がいないからね」
 「そうか・・」
彼の父親も私の父と同じく大工だった人だが、81歳で今も元気だそうだ。私の父の方が3歳も若いが、やはり不摂生をすれば体が弱るのも早いのだろう、今見れば私の父の方がずっとヨボヨボに見えるだろう・・。

 まだまだ話は尽きそうにもなかったが、2時から授業がある私ではゆっくりしていることもできなかった。出棺まで見送った後、「じゃあ、また」と挨拶もそこそこに車に飛び乗った。
 折角の機会だからもうちょっと話したかったが、生徒を待たしておくわけにもいかない。またの機会に・・。

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物忘れチェック表(2)

 このところ妻から「大丈夫?」と咎められることが多い。「私の言ったことなんかすぐ忘れるんだから」1週間ほど前にA4用紙を持ってくるように頼まれたが、何度せっつかれてもすぐに忘れてしまい、昨日やっと妻に手渡すことができた。これなど氷山の一角で、物忘れの例など枚挙に暇がないほどだ。
 ここまでくるとさすがに自分でも心配になる。「まさか認知症?」などと思ったりすると不安になってくる。まさかそれはないだろうと思いたくなるが、それはあくまでも希望的観測で、実際のところどうなのか、知りたくなった。さすがに医者に行くほどの勇気は出てこないので、自分で診断できたらいいのにな、と思っていたところ、随分前このブログで「物忘れチェック表」というものを記事にしたのを思い出した。そこで、当該2007年3月24日の記事に戻って、20項目のチェック表をコピペしてきた。さあ、チェックしてみよう。
 
 ①1日に1回以上、置き忘れがある。    (○)
 ②今日が何月何日なのか、思い出せない。  (×) 
 ③1日に1回以上、ど忘れがある。     (○)
 ④朝食の内容が思い出せないことがある。  (×) 
 ⑤漢字が書けないことがよくある。     (×)
 ⑥物の名前が出てこない。         (×) 
 ⑦以前に比べて新聞やテレビを見なくなった。(×)
 ⑧知り合いの人の名前が出てこない。    (×)
 ⑨元気で働けない、または仕事をやる気がしない。(×)
 ⑩火の不始末がある。           (×) 
 ⑪この1ヶ月間一度も電話をかけていない。 (×) 
 ⑫計算間違えが多い、また勘定をよく間違える。 (×)
 ⑬いつも孤独感や寂しい気持ちがある。   (×)
 ⑭よく知っている道で迷ったことがある。  (×)
 ⑮会合や社会奉仕活動に全く参加していない。(○)
 ⑯1日に1回以上物をどこにしまったか忘れることがある。(×)
 ⑰この1年間旅行を全くしていない。    (×)
 ⑱野菜の名前を10個以上言えない。    (×)
 ⑲話している言葉がよく聞こえない。    (○)
 ⑳現在の総理大臣の名前を知らない。    (×) 

う~~ん、4個当てはまった・・。ちょっとがっかりしたが、4年前の記事には、
>やってみた。ヤバイかもしれない。該当した項目が、①③⑧⑮⑰の5項目もあった・・。
とある。この4年間で、①③⑮は変わっていないが、「知り合いの人の名前が出てこない」頻度は少なくなったように思うから、その辺りは改善されたかもしれない。ただ、人の話が聞き取りにくくなったのは事実だから、体の各パーツで老化が進んでいるのだろう・・。
 だが、総じて見れば、物忘れの度合いは深刻化していないようだ。もちろんこんな簡易テストですべてが分かるわけではないので、安心はできないが、それでもやっぱり少しホッとした。
 大事なことは、できることは1つ1つその場でやっていくことだろう。「後で・・」などと先送りすると忘れる危険性が高くなる。面倒くさがってはダメなのだ!
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一太郎

 やっぱり私にはワードは使いこなせない。改行マークが邪魔だし、罫線の使い方もイマイチだ。それでも日本語を打ち込むだけなら、なんとか形は整えられるまでにはなったた。そこで、勢いに乗って、数学のテキストを作り直そうとしたところ、解決できないことがいくらでも出てきて立ち往生してしまった。
 数学のテキストには、アルファベットをよく使うが、それは普通イタリック体で表示されている。オアシスで作った時には、「センチュリー・メディウム・イタリック」というフォントで作成したため、出来栄えは結構よかった。しかし、困ったことにワードのフォントにはイタリック体がない。いくら探しても見つからないので、あれこれ調べてみたところ、「Ctrl+Shift+F」で、フォント設定ができることが分かった。さっそく実行してみたら、どんな文字でも斜文字に設定することはできたが、これだと日本語までも斜めになってしまい、非常に読みにくい。私が斜体にしたいのはアルファベットだけなので、これではダメだ!もっといい方法はないか、とあれこれ試してみたが、なかなか上手くいかない。悪戦苦闘の末、日本語を「メイリオ」というフォントにすると、斜体でもあまり苦にならずに読めるということを発見して、これで進めようかと思ったが、また新たな問題が浮上した。それは、ワードの数式エディターで作った分数の数までは、いくら斜体にしようと思ってもできないのだ。これだと普通の数字は斜体なのに、分数の数だけは通常のフォントのままだという、統一のとれていない甚だ不格好なテキストになってしまう。またまた困った・・。
 数日思い悩んだ挙句に達した結論は、「やはりワードは私には無理・・」ああ、ワープロが、オアシスが懐かしい。だが、オアシスはWindws 7に対応していないそうで、今更そこまで逆戻りすることはできない。
 「ワープロが一番だな、やっぱり」
と妻に愚痴を言うことも度々だったが、そんな時妻がいいことを言った。
 「ワードはMicrosoftの製品だから、どうしても日本語ワープロの域にまでは行ってないんじゃないの・・」
 「そうか・・、日本語ワープロと言えば、オアシスや一太郎だよな、やっぱり・・」
この瞬間、閃いた。
 「おい、一太郎はどうだ?使い易いのか?」
 「私は使ったことがないけど、ATOKのJUSTSYSTEMの製品だから、悪くはないと思うよ。検索してみれば?」
なるほど、と思ってググってみたところ、「一太郎 2011創」という最新版が出たばかりなのが見つかった。
『インターフェースを再設計し、生まれ変わった高性能多機能ワープロソフト。いつもの慣れた操作で“かしこい”変換を可能にする日本語入力システム「ATOK 2011 for Windows」を搭載』
 などと宣伝文句が並べられているが、一度も使ったことのない私には意味がまったくわからない。しかし、「30日無料体験版」が用意されていたので、論より証拠、試してみるべきだ、とすぐにダウンロードしてみた。

 
 実際2日間使ってみた。さすがにすぐに使いこなせるほど単純ではないが、それでもワードと比べたら雲泥の差だ。一太郎の方がはるかに使いやすい。ワードで苦労したせいもあるのか、数学の問題集作成もすらすらできた。罫線の引き方も簡単だし、フォントも日本語と英数字が別々に斜体の設定ができるから、私の望みどおりだ。分数も行間を詰めることによって簡単に入力できて、数字も斜体にできる。あとはグラフ作成が上手くいけたら申し分ないところだが、まだそこまでは調べていない。だが、この調子なら、きっと思い通りにできそうな気がする。
 とりあえず、無料期間の30日を有効に使って、何ができるかできないかをはっきりさせることが大事だろう。その後で一太郎をインストールするかどうか判断すればいい。

 でも、たぶんこのまま使うことになるだろうな・・。
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「History Repeats」

 大江健三郎が福島原発について何か語っていないのか、ふと気になって調べてみたら、アメリカ「The New Yorker」という雑誌に寄稿した文章を見つけた。その日本語訳が、救援活動に役立つニュースを紹介している「明かり新聞」(あかり新聞) の中にあったので、英文と訳文を転載してみる。

  「HISTORY REPEATS   by Kenzaburo Oe MARCH 28, 2011」 
 By chance, the day before the earthquake, I wrote an article, which was published a few days later, in the morning edition of the Asahi Shimbun. The article was about a fisherman of my generation who had been exposed to radiation in 1954, during the hydrogen-bomb testing at Bikini Atoll. I first heard about him when I was nineteen.  
 Later, he devoted his life to denouncing the myth of nuclear deterrence and the arrogance of those who advocated it.  
 Was it a kind of sombre foreboding that led me to evoke that fisherman on the eve of the catastrophe?  
 He has also fought against nuclear power plants and the risk that they pose. 
 I have long contemplated the idea of looking at recent Japanese history through the prism of three groups of people: those who died in the bombings of Hiroshima and Nagasaki, those who were exposed to the Bikini tests, and the victims of accidents at nuclear facilities. 
 If you consider Japanese history through these stories, the tragedy is self-evident.  
 Today, we can confirm that the risk of nuclear reactors has become a reality. 
 However this unfolding disaster ends?and with all the respect I feel for the human effort deployed to contain it?its significance is not the least bit ambiguous: 
 Japanese history has entered a new phase, and once again we must look at things through the eyes of the victims of nuclear power, of the men and the women who have proved their courage through suffering. 
 The lesson that we learn from the current disaster will depend on whether those who survive it resolve not to repeat their mistakes. 
 This disaster unites, in a dramatic way, two phenomena: Japan’s vulnerability to earthquakes and the risk presented by nuclear energy.  
 The first is a reality that this country has had to face since the dawn of time.  
 The second, which may turn out to be even more catastrophic than the earthquake and the tsunami, is the work of man.  
 What did Japan learn from the tragedy of Hiroshima?  
 One of the great figures of contemporary Japanese thought, Shuichi Kato, who died in 2008, speaking of atomic bombs and nuclear reactors, recalled a line from “The Pillow Book,” written a thousand years ago by a woman, Sei Shonagon, in which the author evokes “something that seems very far away but is, in fact, very close.” 
 Nuclear disaster seems a distant hypothesis, improbable; the prospect of it is, however, always with us.  
 The Japanese should not be thinking of nuclear energy in terms of industrial productivity; they should not draw from the tragedy of Hiroshima a “recipe” for growth. 
 Like earthquakes, tsunamis, and other natural calamities, the experience of Hiroshima should be etched into human memory: it was even more dramatic a catastrophe than those natural disasters precisely because it was man-made.  
 To repeat the error by exhibiting, through the construction of nuclear reactors, the same disrespect for human life is the worst possible betrayal of the memory of Hiroshima’s victims. 
 I was ten years old when Japan was defeated. The following year, the new Constitution was proclaimed. 
 For years afterward, I kept asking myself whether the pacifism written into our Constitution, which included the renunciation of the use of force, and, later, the Three Non-Nuclear Principles (don’t possess, manufacture, or introduce into Japanese territory nuclear weapons) were an accurate representation of the fundamental ideals of postwar Japan.  
 As it happens, Japan has progressively reconstituted its military force, and secret accords made in the nineteen-sixties allowed the United States to introduce nuclear weapons into the archipelago, thereby rendering those three official principles meaningless. 
 The ideals of postwar humanity, however, have not been entirely forgotten. 
 The dead, watching over us, oblige us to respect those ideals, and their memory prevents us from minimizing the pernicious nature of nuclear weaponry in the name of political realism.  
 We are opposed. Therein lies the ambiguity of contemporary Japan: it is a pacifist nation sheltering under the American nuclear umbrella. 
 One hopes that the accident at the Fukushima facility will allow the Japanese to reconnect with the victims of Hiroshima and Nagasaki, to recognize the danger of nuclear power, and to put an end to the illusion of the efficacy of deterrence that is advocated by nuclear powers. 
 When I was at an age that is commonly considered mature, I wrote a novel called “Teach Us to Outgrow Our Madness.” 
 Now, in the final stage of life, I am writing a “last novel.” 
 If I manage to outgrow this current madness, the book that I write will open with the last line of Dante’s Inferno: “And then we came out to see once more the stars.”  

 「歴史は繰り返す」   大江健三郎 2011年3月28日 
私は偶然にも、地震の前日に朝日新聞の朝刊に載せるための原稿を書いていました。 
 
それは数日後に掲載するための原稿であったのですが、私は1954年にビキニ環礁で水爆実験に遭遇し放射能にさらされた漁師についてを書いていたのです。 
私がその話をはじめて聞いたのは十九歳の頃でした。
 彼はのちに、核抑止力の神話とそれを提唱した人たちの横暴について非難することに、生涯を捧げます。 
 大震災の前日に、ビキニ環礁の漁師についてを思い起こさせるようにし向けたのは、一種の深刻な虫の知らせだったのでしょうか。  
 彼はまた原子力発電所がもたらすリスクに反対して戦っていました
 私は現代の日本の歴史を強く彩っている三つの地域に居た人々について、長く熟考していました。 
 ヒロシマとナガサキで原子爆弾によって亡くなられた人々、ビキニ環礁での核実験に遭遇した人々、原子力発電所での事故の犠牲者たち。
 もしあなたがこれらの話を通じて、日本の歴史を考慮すれば、悲劇は自明です。
 今日、私たちは原子炉の危険が現実のものになったことをはっきりと認めることができます。 
 どのようにして、この次々に明らかになってゆく惨劇は終わるのでしょうか。そしてそれを抑えるために配置された、私が敬意を表する人間の努力はどうなるのでしょうか。その意味は全くあいまいではありません。 
 日本の歴史は新しい局面に入りました。そうして今再び、私たちは原子力の犠牲者となり、苦しみの中にあった人々の勇気あるまなざしを通じてものを見なければなりません。 
 私たちが現在の災害から学ぶべき教訓は、これから生き延びる人々が同じ過ちを繰り返さないと決意するかどうかによるのです。 
 この災害は二つの劇的な現象によって結びつけられます。日本が地震に弱く、また原子力発電所がもたらす危険性が高いということです。
 一つめは、この国の歴史がはじまって以来、直面し続けなければならなかった現実のものです。  
 地震と津波よりもさらにいっそう大惨事を導きかねない、第二の惨事は、人間がもたらすものです。 
 日本はいったい、ヒロシマの惨事から何を学んだのでしょうか? 
 現代の偉大な批評家の一人、加藤周一(1919年 – 2008年)は、原子爆弾と原発について話す時に、清少納言の「枕草子」から言葉を引用しました。「遠くて近きもの」これは千年以上前に書かれたものです。 
 原子力災害は、ありそうもない遠い仮説に思われます。しかしながら、それは常に私たちと共にあるのです。  
 日本人は核エネルギーを産業効率優先で考えるべきではありません。ヒロシマの悲劇を“成長のための秘法”としてとらえてはならない。 
 地震や津波や他の自然がもたらす災難のように、ヒロシマの経験は人間の記憶の中にエッチングで描かれるべきものです。それはまさに人工的な大惨事であるからこそ、自然災害よりもさらにいっそう酷いものであった。 
 原子炉の製造において過ちを繰り返すことは、ヒロシマの犠牲者たちを裏切る、最悪の人命軽視です。 
 日本が敗戦をむかえたころ、私は十歳でした。次の年、あたらしい日本国憲法が公布されました。 
 何年ものちに、私は軍事力行使の放棄を謳った憲法九条を含む私たちの憲法に記された平和主義と、のちの非核三原則(核兵器をもたず、つくらず、もちこませず)が、戦後日本の基本的理念のまぎれもない代表であったかどうかを自問し続けました。 
 偶然にも、日本は次第に再軍備し、そして1960年代に交わされた秘密協定によってアメリカ合衆国が核兵器を沖縄に持ち込むことを許し、非核三原則を無意味にしてしまいました。 
 戦後の人道的理想は、しかしながら完全に忘れ去られたものではありません。 
 死者は私たちを見守り、私たちに彼らの理想を尊重することを義務づけます。死者の記憶は、私たちが政治的現実主義の名のもとに、核兵器の有害性を矮小化してみせることを拒絶します。  
 私たちは、二律背反の世界にいます。そこにはアメリカの核の傘の下に守られている平和主義国である現代日本のあいまいさが横たわっています。 
 一つの望みは、福島原子力発電所での事故をきっかけとして、日本人が再びヒロシマとナガサキの犠牲者たちと心を通わせ、原子力の危険性を認識し、そして核保有国によって提唱されている核抑止力という幻想を終わらせることです。 
 私が成熟した年齢であったとき、私は“われらの狂気を生き延びる道を教えよ”という本を書きました。 
 今、レイトワークの小説として“last novel.”を執筆しています。
もし、私がどうにかして狂気の時代を生き延びえたのならば、その本の第一文にはダンテ《地獄》最終行に記された“かくてこの處をいでぬ、再び諸々の星をみんとて”という一文から始まる小説となるでしょう。 
 
 

 大江健三郎なら間違いなくこう書くであろうという文章であるが、なぜ日本の雑誌ではなくアメリカの雑誌に書いたのだろう・・。
 それに、この文章、原発から避難している福島の人たちには、「だからどうした?」って内容に思えるんじゃないだろうか・・。
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今度こそ!

 懲りない奴っていうのはどこにでもいるもので、かく言う私こそその最たる者であるのは、あれだけ枯らしてしまったというのに、平気な顔をしてまた観葉植物を集め始めたことで分かる。一応の理由は、「もう少し暖かくなったらシンビジュウムの鉢は外に出さねばならない。そうすると、部屋の緑が寂しくなるから、ボチボチ観葉植物を集めなくては・・」などというものだが、そんな屁理屈、誰もまともに取り合ってはくれないだろう。そんな言い訳用意しないで、ただ単に「新しいものが欲しいから」と言った方が、正直でいいかもしれない。
 そこでまず第一弾として買って来たのが「モンステラ」。


 大きな葉に独特の切れ込みがあって、以前から欲しいと思っていた。たまたま花屋で小ぶりな鉢を見つけた時は、「なんて巡り合わせ!」と思い込んで、即座に買った。昨年買った「セローム」は枯れずに残っているが、葉が減ってしまって寂しくなっていたから、上手い具合に巡り合えた。
 
 第二弾は、「ココヤシ」。


 昨年買った「ココヤシ」は冬を乗り切れずに枯れてしまった・・。(写真の左の方に、葉が茶色くなったココヤシが写っている)覚悟はしていたが、やはり寂しくて、「モンステラ」を買ったのと同じ花屋で手に入れた。去年の物と比べると葉も大きくて元気がよさそうだ。花屋では冬の間、パネルヒーターで暖めて育てていたそうだから、長く育てようと思うのなら、次の冬までに暖房設備を用意しなくてはならない。
 今思えば、観葉植物初心者の昨年の私はあまりに無計画・無知過ぎた。犠牲になった「サンスベリア」や「フィカスアルテシーマ」には申し訳ないことをしたと深く反省しているが、この苦い失敗を新しい植物たちの成長に役立てていくことで、何とか罪滅ぼしをしたいと思っている。
 「これからは暖かくなって行きますから、どこに置いても上手く育っていきますよ」
そう言った花屋の店員さんの言葉を信じて、毎日眺めていこうと思っている。
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ひっそりと・・

 桜の下で宴会を催すのが「花見」なら、今年は花見をしなかった。だが、言葉の通り、桜を見るのなら、日曜日にゆっくりとした。場所は毎年宴会をする公園。今年は妻と二人だけ(愛犬の太郎も連れて行ったが)で、ひっそりと眺めた。

 

 毎年桜が咲くのは当たり前だと思っているから驚きもしないが、いつの年も例外なく爛漫と咲き誇るのには驚く。「咲くには咲いたけど、今年の桜はダメだね」などと言ったことは一度もない。今までずっとそうだったから、来年も再来年もずっとそうであって欲しい。
 そう祈念しながら、撮った写真がこれ。


 「静かな花見もいいもんだな」
 「まあね・・」
 「でも、ビール飲みたくなるよな、やっぱり」
 「そうだね」
 「飲むか?」
 「飲もうか」

てなやり取りがあって、一本ずつゆっくり飲みほした。陽が高いうちにビールを飲んだのは久しぶりだったが、良い心持になれて嬉しかった。
 呑気なのが一番いい・・・。被災地の人たちにもそんな時が少しでも早く訪れるよう、願わずにはいられなかった。
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父と二人で・・

 私にとって、4月が一番楽な月のように思う。新学期が始まったばかりで、ゴールデンウィーク明けまで定期テストがないこの時期は、日曜日をすべて休みにできる。そんな月は他には8月があるだけだが、8月は夏期講習のただ中だけあって、毎日12時間以上働かねばならないため、肉体的にも精神的にもかなりきつい。そう思うと、新学期の授業が軌道に乗りさえすれば、4月が一番のんびりできる月であることは確かだ。
 
 そんな日曜の昨日、父を畑に連れて行った。退院後、近所の人と何度か畑に行っているが、私が連れていくのは初めてだった。
 父の目的はゴーヤの種をまくこと。

 

 芽が出た後つるが伸びやすいよう、イノシシよけのネットが張ってある畑の隅に、昨年からとってあった種をまくのが父の役目。その間、私はネギとほうれん草を抜いた。

 

 ゴーヤは、煎じて飲むと糖尿病に効能があるため、3年前から収穫したゴーヤをほぼ伯母に渡しているが、今年もゴーヤを伯母のために作らねばならないと、入院中から何度も繰り返していただけに、やっと思いを果たせたことになる。普段は素っ気ないことばかり言っている伯母に対して、そんな気遣いをするのも驚く。今では父の体の方が怪しいが、それでも義弟として伯母のことは常に気にかけているのあろう・・。

 それと一週前に植えたジャガイモに肥えを遣った。



 父も、本当はもっと畑に通いたいのだろうが、妙に遠慮して言いだして来ない。退院して1か月以上経って、生活のリズムもなんとなくでき上がって来たように思うが、好々爺になってしまったのか、それとも我慢をしているのか、私としてはまだまだ手探りの状態だ。少しでも楽しい毎日を過ごせるよう、できるだけのことはしているつもりだが、なかなか難しい。
 日々勉強だ・・。
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