EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市内の銅像巡り6 秋山眞之 像

2014年05月06日 | 伊予松山歴史散策
秋山眞之 像

眞之は、慶応4年3月20日、現在の松山市歩行町二丁目3番地6にて、松山藩士・秋山平五郎久敬の五男として生まれ名を淳五郎と命名・元服した時に眞之(さねゆき)と改名した。
好古は実兄である。15歳で上京し、親友の正岡子規と清水則遠と共に大きな志を抱き、東京大学を目指した。大学予備門時代に夏目漱石と同期であった。その後、眞之は、尊敬する兄に対し「自分がこれまでになれたのは兄のおかげだ」と生涯にわたって兄好古を尊敬した。そのため、兄好古に経済的な負担を掛けるのは忍び難しとの思いで、東京大学進学を諦め、明治19年海軍兵学校に入学し同校を首席で卒業する。 そして、日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦では、ロシア帝国海軍太平洋第二・第三艦隊(バルチック艦隊)を迎え、伊予水軍戦法の「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅、戦局の大勢を決した。その後中将に昇進したが、大正7年2月、小田原にいた元老、山県有朋と会見、その時小田原で盲腸炎を患い、腹膜炎を併発し大正7年2月4日病死、49歳11ケ月の若さであった。眞之の辞世句、「不生不減明けて鴉の三羽かな」、現在は鎌倉霊園に眠っている。位階は従四位を叙位。


眞之の胸像について。
眞之が海軍大学校教官時代の教え子達が醵金を募り(約900円)「当時イタリア大使館に勤務していた教え子の一人の武官が」ローマ在住の彫刻家・マリォ・リナルディに依頼して作った胸像の複製です。
 出来上がった胸像の請求金額が、注文時の金額よりも1,5倍多く、武官は金額が高い理由はと質問すと、日本海海戦の連合艦隊専任参謀として大活躍した将校なので形のいい大きさに作り上げたらこの大きさ1,5倍になった、よってこの金額を請求する。・・・武官曰く追加金の調達準備をしないと予算が無いと説明・・困り果てた様子をした。
 此れをみた彫刻家は、分かりました、予算通りの金額でよろしいと、この偉大なる将軍に敬意を表してと元の金額に落ち着いたとの逸話があります。
平成17年1月18日 財団法人常盤同郷会は、東京目黒にある海上自衛隊幹部学校に安置されている眞之銅像の複製許可を得て秋山兄弟生誕地整備事業の記念として富山県高岡市の会社に依頼し複製しました。


眞之の胸像台座左側に、彫刻家・マリォ・リナルディの銘が刻まれている。


海上自衛隊幹部学校に安置されている秋山眞之の銅像。
海軍大学校教官時代の教え子達が醵金を募り(約900円)「当時イタリア大使館に勤務していた教え子の一人の武官が」ローマ在住の彫刻家・マリォ・リナルディに依頼して作った胸像の本物です。東京目黒にある海上自衛隊幹部学校に安置されている。平成17年5月12日海上自衛隊の許可を得て撮影した。

大正14年、銅像は教え子から眞之未亡人に贈呈され、未亡人は即海軍大学校へ寄贈した。先の大戦連合軍による没収を恐れ一時期秋山家に返納されたが戦後現在の海上自衛隊幹部学校(目黒区)に返納され安置されている。室内用に創られたので台座は木製である。


昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。眞之が連合艦隊先任参謀として、三笠艦上にあったときの軍装姿であった。銅像の表には、元帥東郷平八郎の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられていたが先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。しかし「智謀如湧」の四文字の銅板は残った。現在は、梅津寺の銅像の台座に設置されている。


昭和6年、建立された銅像は、金属供出されたが、昭和38年に石手寺に再建され、昭和43年9月に梅津寺へ移された。画像は、梅津寺へ移された現在のものです。台座には、金属供出を免れた東郷平八郎の「知謀如湧」の揮毫が埋め込まれている。


梅津寺へ移された眞之像後ろ姿の画像で、日本海海戦のあった対馬海峡を見ている様に建てられている。


梅津寺へ移された現在の画像で、手前の石は旅順港閉塞作戦に使われた福井丸に積まれていた石で、大分県竹田市にある「広瀬武雄神社」から贈られた「護国の石」です。


大分県竹田市にある「広瀬武雄神社」から贈られた「護国の石」を大きく掲載しました。
明治37年、日露戦争が勃発。 日本海軍は、旅順港口の狭い入口に船を沈めて、ロシア帝国海軍太平洋第一艦隊の軍艦が出られないようにする非常に危険な「旅順港閉塞作戦」を決行した。広瀬は、志願して第1回目の作戦で「報国丸」を指揮して出撃。入り口の最も近い場所に船を自沈させて無事帰還した。 第2回目の作戦は3月27日に決行。広瀬は再び志願して「福井丸」の指揮官で出撃。船を沈めて帰えろうとしたが、 部下の杉野兵曹長がいないので船内をくまなく3度も探したが見つからず、やむを得ずボートに乗り移った瞬間、ロシア軍の直撃弾を 頭部に受けて即死。日本海軍は、広瀬武夫の武勇や部下を思う心と壮烈な戦死をたたえ、軍神第1号としてあがめ、中佐に特進させた。 眞之は、武夫が第2回目に出陣する直前の3月24日、「福井丸」に武夫を訪ね無事帰還を願ったが、最後の別れとなった。

自沈させた福井丸はその後引き上げられ、バラストとして積まれていた石が広瀬中佐の故郷である竹田に運ばれ、現在の広瀬神社の戦没者慰霊碑の礎石として使われています。
そのうちの一つが松山市に贈られ秋山眞之の像の前に置かれている。画像はその石(護国の石)である。
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松山市内の銅像巡り5 秋山好古 像

2014年05月02日 | 伊予松山歴史散策

秋山好古 像

安政6年1月7日、現在の松山市歩行町二丁目3番地6にて、松山藩士・秋山平五郎久敬の三男として生まれ名を信三郎と命名・16歳の時好古と改名した。
好古は、福沢諭吉の学問のすすめを読み、先生を志した。
 明治政府は、国民達に学問を大いに奨励、教育者養成の師範学校を設立した。好古16歳の時大阪に学費の要らない学校が出来た事を知り大阪行きを決意し父親に打ち明ける。父もこの事は薄々感じていた。信よ旅費は大阪までの片道の費用だけしか用意出来ない。大阪では自分で働き、志を貫けよと送り出した。入学資格は、19歳以上であった。大阪で代用教員を行い18歳の時偽って入学、大阪師範学校卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任、この学校に松山出身で学務主事の和久と、名古屋鎮台にも松山出身の山本武官がいた。 親藩であった松山藩士の諸氏は、当時官僚・軍人としては出世出来なかった。 政府は、明治7年11月に軍の養成を目的として、陸軍士官学校を設立した。何より能力次第で薩長出身なみに出世出来る可能性を秘めていた。 和久と山本は、好古に陸軍士官学校に行く事を強く薦め、東京行きを決めた。軍隊が長かったが、大正13年郷里の強い要望に応え、北豫中学校の校長として故郷の教育の為に尽くし昭和5年11月4日、東京で逝去、 72歳であった。


好古は生前、家は要らぬ、墓も仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立せぬようにと言って逝去した。
昭和11年1月11日、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立された。好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり寄付を募り建設された。 製作は、富山県出身、東京在住の彫刻家横江嘉純です。
この銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされ幸いそのレプリカの一つが県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元された。
 完成は、平成17年1月18日 財団法人常盤同郷会が、秋山兄弟生誕地整備事業の記念として復元した。


秋山兄弟生誕地整備事業が完成し平成17年1月19日に開館、画像は開館5日前に撮影した。


秋山兄弟生誕地開館当時の画像。


好古銅像の台座に彫刻家、嘉純の銘が刻印されている。


秋山好古と眞之兄弟が語り合っている姿勢で目と目を合わせ銅像を設置した。


昭和11年1月11日、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に建立された好古の騎馬像。


好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり、昭和11年1月11日、道後公園(中世の城郭跡・湯築城)内に建立された好古の騎馬像。
作は、富山県出身東京在住の彫刻家、横江嘉純の力作で、秋山好古大将像の揮毫は、陸軍大将、川島義之。
この銅像は、昭和18年、先の大戦中に金属供出で撤去された。


梅津寺公園の見晴山に建っている秋山好古の銅像で、昭和45年1月に、篤志家の募金により建立されたものである。


梅津寺の秋山好古立像の後ろ姿、遠く奉天を眺めるよう建てられた。
台座裏面には、昭和11年道後公園に建立された当時陸軍大将、川島義之が書した好古の経歴銘板が設置されている。秋山好古将軍銅像建設会・ 題字陸軍大臣川島義之書・・と書かれている。


旧北豫中学(現・愛媛県立松山北高等学校)創立80周年記念館の玄関に設置された秋山好古先生像。


秋山好古先生像(松山北高校八十周年記念館前)旧制北予中学校第四代校長・平成16年設置。愛媛県立松山北高等学校創立80周年記念館と秋山好古先生像。


秋山好古先生像台座裏面に画像の銘板が埋め込まれている。

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