昨日画像の整理をしていたら、もう一件御紹介したい画像が見つかりました。
それは、平成7年6月29日に松山市指定有形文化財に指定された「釣島灯台吏員退息所及び倉庫」の見学会が平成16年10月17日、同市教育委員会主催で行われた時の画像です。
所在地は、愛媛県松山市泊町にあり、興居島の西方2kmに浮かぶ同島の附属島で、面積0,3平方kmの小島である。有人島で飲料水は松山市が完備した海水淡水化装置が設置してある。
灯台は、明治6年に創建され活動を開始、昭和38年に無人化されているが、現役として釣島海峡を航行する船舶の安全を標示している。明治4年9月、工部省所属の測量船が訪れ、外国人技士が上陸した。松山県から釣島水道を望む敷地665坪を譲り受け、灯台の建設が開始された。明治維新に始まる文明開化への道のりは、まず灯台の建設から始まった。
建設資材の内、石材は広島県倉橋島や山口県徳山産、木材は郡中及び長浜から調達され、主要機器やドーム・サッシは、はるばる英国本国運ばれ、特に石工達は我が国古来の石積み技法とは異なる技法で仕上げた。後に道後温泉神の湯の内装にこの技法が用いられた。
灯台は、1年8ヶ月の工期をもって、明治6年6月15日初めて点灯した。瀬戸内海航路における建築順位は第8番目にランクされ、外国人の手による洋風建築としては県下唯一の建造物である。
なお、光遠距離は、白光20,5海里(37km)で管理は、海上保安庁第6管区がしている。
釣島灯台旧官舎の所在地
松山市泊町1433番地2(外観見学自由)
※三津浜港発、高浜港経由の西中(中島)行きフェリーで釣島港で下船。港から灯台まで歩いて約20分。一日2便しかない。
瀬戸内海の難所、来島海峡の入口を守る釣島灯台。昭和38年までは燈台守が管理操作していたが現在は無人化。
現在、日本各地に立つ灯台は3,300か所あるが、そのうち明治時代に建設されたもので現役は67か所あるという。釣島灯台は建設年代順で9番目となるが、明治初期の官舎が後世の大きな改造もなく現地で当初の姿を保っているのはここ釣島灯台のみである。
昭和31年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績の妻・きよの手記から題材を得て映画化された「喜びも悲しみも幾歳月」の田中さんは、釣島灯台には赴任して無かった。
毎日日没から日の出まで白と赤交互の閃光を放ち続ける。
灯台入口に標記の金属板が埋め込まれている。
釣島灯台の敷設建造物「旧官舎・倉庫」で、平成7年(1995)、当時の大蔵省から土地と建物の払い下げを受け、自治省の地域文化財保全事業として平成7年度から平成9年度の3か年をかけて松山市が保存整備した。
使っている石材は、殆どが広島県倉橋島の御影石で、石の色は薄い桜色をしている。
社団法人燈光会が製作した「釣島灯台」の説明板。
松山市・松山市教育委員会が設置した「釣島灯台旧官舎・倉庫」の説明板で、この建造物が市指定の建造物で、灯台そのものは未だ何処からも指定は受けてない。
松山市唯一の海水淡水化施設。
松山市公営企業局が管理運営する海水淡水化施設の内部。
この時飲料したが何も違和感のない飲料水でした。
何時も上水不足で困難を来たす松山市は、行く行くは海水淡水化装置を設置する必要があるのでは??
釣島港で、船便は一日2便しかない。島民は半農半漁で生計を立てている。
三津浜港発、高浜港経由の西中(中島)行きフェリーで釣島港で下船。港から灯台まで歩いて約20分。一日2便しかない。
それは、平成7年6月29日に松山市指定有形文化財に指定された「釣島灯台吏員退息所及び倉庫」の見学会が平成16年10月17日、同市教育委員会主催で行われた時の画像です。
所在地は、愛媛県松山市泊町にあり、興居島の西方2kmに浮かぶ同島の附属島で、面積0,3平方kmの小島である。有人島で飲料水は松山市が完備した海水淡水化装置が設置してある。
灯台は、明治6年に創建され活動を開始、昭和38年に無人化されているが、現役として釣島海峡を航行する船舶の安全を標示している。明治4年9月、工部省所属の測量船が訪れ、外国人技士が上陸した。松山県から釣島水道を望む敷地665坪を譲り受け、灯台の建設が開始された。明治維新に始まる文明開化への道のりは、まず灯台の建設から始まった。
建設資材の内、石材は広島県倉橋島や山口県徳山産、木材は郡中及び長浜から調達され、主要機器やドーム・サッシは、はるばる英国本国運ばれ、特に石工達は我が国古来の石積み技法とは異なる技法で仕上げた。後に道後温泉神の湯の内装にこの技法が用いられた。
灯台は、1年8ヶ月の工期をもって、明治6年6月15日初めて点灯した。瀬戸内海航路における建築順位は第8番目にランクされ、外国人の手による洋風建築としては県下唯一の建造物である。
なお、光遠距離は、白光20,5海里(37km)で管理は、海上保安庁第6管区がしている。
釣島灯台旧官舎の所在地
松山市泊町1433番地2(外観見学自由)
※三津浜港発、高浜港経由の西中(中島)行きフェリーで釣島港で下船。港から灯台まで歩いて約20分。一日2便しかない。
瀬戸内海の難所、来島海峡の入口を守る釣島灯台。昭和38年までは燈台守が管理操作していたが現在は無人化。
現在、日本各地に立つ灯台は3,300か所あるが、そのうち明治時代に建設されたもので現役は67か所あるという。釣島灯台は建設年代順で9番目となるが、明治初期の官舎が後世の大きな改造もなく現地で当初の姿を保っているのはここ釣島灯台のみである。
昭和31年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績の妻・きよの手記から題材を得て映画化された「喜びも悲しみも幾歳月」の田中さんは、釣島灯台には赴任して無かった。
毎日日没から日の出まで白と赤交互の閃光を放ち続ける。
灯台入口に標記の金属板が埋め込まれている。
釣島灯台の敷設建造物「旧官舎・倉庫」で、平成7年(1995)、当時の大蔵省から土地と建物の払い下げを受け、自治省の地域文化財保全事業として平成7年度から平成9年度の3か年をかけて松山市が保存整備した。
使っている石材は、殆どが広島県倉橋島の御影石で、石の色は薄い桜色をしている。
社団法人燈光会が製作した「釣島灯台」の説明板。
松山市・松山市教育委員会が設置した「釣島灯台旧官舎・倉庫」の説明板で、この建造物が市指定の建造物で、灯台そのものは未だ何処からも指定は受けてない。
松山市唯一の海水淡水化施設。
松山市公営企業局が管理運営する海水淡水化施設の内部。
この時飲料したが何も違和感のない飲料水でした。
何時も上水不足で困難を来たす松山市は、行く行くは海水淡水化装置を設置する必要があるのでは??
釣島港で、船便は一日2便しかない。島民は半農半漁で生計を立てている。
三津浜港発、高浜港経由の西中(中島)行きフェリーで釣島港で下船。港から灯台まで歩いて約20分。一日2便しかない。