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子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その4 愚陀仏庵

2018年05月23日 | 伊予松山歴史散策

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵・回顧の最後となる、愚陀仏庵である。

 画像は、昭和20年7月26日、松山空襲で焼失する前の上野義方邸の離れ屋敷漱石の下宿先(愚陀仏庵)である。

愚陀仏庵は、明治28年4月9日、松山中学の英語教師として赴任した時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号「愚陀仏」に由来するものである。

夏目漱石は、本名は夏目金之助と言い、漱石は、子規の数ある俳号の一つで非常に気に入り、子規から譲り受けた雅号である。

明治28年4月9日、松山に着いた漱石は、三番町の城戸屋旅館に数日間泊まった後、一番町の愛松亭に下宿、さらに上野義方邸の離れ屋敷、現在の二番町三丁目に身を落ち着けた。

愚陀仏庵とは、上野義方邸の離れ屋敷のことである。

 子規は、日清戦争時、近衛師団付の記者として従軍、その帰路船中で喀血、神戸の須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷したのが、明治28年8月27日で、そして10月17日までの52日間身を寄せた。それが夏目漱石の下宿先である愚陀仏庵であった。漱石は二階に、子規は一階で共同生活をした。

一階の部屋では、毎晩子規が指導する「松山松風会」の会員らと俳句に熱中、漱石も句会に参加する事になり、此れが文豪夏目漱石の出発となった。

明治29年4月、漱石は熊本第五高等学校に転任する。

子規の松山中学の同級生、柳原極堂が明治30年、俳誌「ホトトギス」を創刊、高浜虚子の勧めで、ホトトギスに小説「吾輩は猫である」「坊っちゃん」を連載、漱石の作家生活が始まった。

漱石が松山に来ていなかったら、文豪夏目漱石は誕生しておらず、平凡な英語教師として人生を過ごしていただろう。

愚陀仏庵での子規との52日間の生活は、漱石の人生を変革に導いた大切な日々であった。

そして子規の訃報が届くのは、明治35年漱石が英国から帰国直前であった。

昭和20年7月26日、松山空襲で焼失する前の城戸屋旅館(きどや旅館)で夏目漱石は、明治28年4月9日、午後2時頃松山中学英語教師として赴任し、松山で最初に泊まった旅館である。

同年4月11日付の地元、海南新聞(現、愛媛新聞)の公報欄に以下のような記事が掲載された。

愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託ス 夏目金之助
  月俸金八拾円給与

80円の月給は当時としては破格のもの(同中学校長の月給が60円)。高給取りの偉い先生がお泊まりだということで、きどや旅館は待遇を改め部屋も一番いい部屋にしたそうだ。

画像は、松山空襲で焼失し経営者の努力で昭和28年に総桧造りで再建、漱石が泊まった「坊っちゃんの間」(漱石の間)と呼ばれる部屋も忠実に復元されていたが、昭和53年に旅館を廃業。その後も建物は残っていたが、平成24年に取り壊され、今はビルが建設された。

註:城戸屋旅館は、北海道大学名誉教授、北海道教育大学学長を務めた城戸幡太郎(きど まんたろう)の生家である。

城戸 幡太郎、明治26年7月1日生まれ、昭和60年11月18日逝去、92歳。日本の心理学者、教育学者である。

現在の城戸屋旅館(きどや旅館)跡は、ビルとなっている。

松山市が設置したきどや旅館の説明版。

現在はビルの前にこの説明版があるだけで往時の面影は何もない。

愛松亭跡の記念碑。

漱石は、きどや旅館から、愛松亭の離れ屋敷を下宿先とした。

漱石が下宿した愛松亭で、大正11年この地に萬翠荘が建設される。

愛松亭は、津田保吉の「愛松亭・小料理屋」で藩政時代伊予松山藩の家老菅氏の屋敷跡である。

建物は平屋建てで一部2階建であった。この2階建て部分が料亭・愛松亭だったそうで、その離れ屋敷を漱石は下宿先とした。その後、大正11年完成した伊予松山藩主、久松家当主久松定謨が建設した萬翠荘・久松定謨の別邸となる。

 

萬翠荘の前に説明版と、漱石が恩師、神田乃武に送った書簡の説明文と、書簡を記念碑とした碑が建立してある。

明治28年4月16日、漱石が恩師、神田乃武に送った書簡を揮毫し記念石碑として建立している。(萬翠荘まえにある)

漱石は、愛松亭から更に下宿先を変更したのが、昭和20年7月26日、松山空襲で焼失する前の上野義方邸の離れ屋敷(愚陀仏庵)である。

画像は、昭和57年、萬翠荘裏手に再建された愚陀仏庵で、平成22年7月12日、豪雨により土砂崩れが発生し、愚陀仏庵は倒壊した。

 

平成22年7月12日、豪雨による土砂崩れが発生し、愚陀仏庵は倒壊し早速再建について検討が始まり、候補地は昭和57年再建された萬翠荘裏地、戦前あった二番町三丁目の地、道後温泉上人町(寶厳寺前)に再建してはとの意見が出た。

しかし何故か未だに再建されてない。・・何故か?

現在、愚陀仏庵跡は、画像の様に更地になっている。画像上部に見える部分が萬翠荘である。

土砂崩れが発生した場所は、松山城東雲口の登城道で県庁口の登城道と交わる少し手前が崩壊した。松山城築城以来、初めて起きた出来事であった。

画像は、萬翠荘で、大正11年、旧伊予松山藩主、久松家当主第16代久松定謨が愛媛県で最初に建設された鉄筋コンクリート造りのフランス風の建物で、大正11年11月15日 陸海軍の大演習が松山高浜沖合で行われ、その時観閲にお越しになった摂政宮(昭和天皇が皇太子時代)さまが同年11月22日から24日迄滞在された建物である。大正11年以前愛松亭のあった場所である。

昭和57年再建された愚陀仏庵は、萬翠荘の裏地にあった。

萬翠荘を広角で撮影、背景の山は、全体が松山城史跡公園で、上部一部見えるのが、松山城本丸の隠門続櫓である。倒壊した愚陀仏庵は、萬翠荘直ぐ裏手にあった。一時期は外観だけ観光資源として使われていたが、平成21年7月からは句会、お茶会等々を開催し、内部も一層の観光の為に寄与し開放していただけに残念な出来事であった。

再建地は、この地が一番いい場所だと私は思います。

なお、萬翠荘は平成23年11月29日、国指定の重要文化財となった。

松山市二番町三丁目7番地にある、元祖愚陀仏庵があった上野義方邸の離れ屋敷跡で、現在は駐車場となっている。

愚陀仏庵再建地の一つとして取り上げられているが、一方通行の市道で、交通量が多く歩行者には安全性に問題がある。

 元祖愚陀仏庵があった上野義方邸の離れ屋敷跡で、現在は駐車場となっている。

愚陀仏庵再建の候補地である。

松山市二番町三丁目7番地にある、愚陀仏庵跡に松山市が設置している説明版である。

説明文言に「愚陀仏庵」は昭和20年7月26日、松山大空襲のため焼失し、現在は、萬翠荘裏に復元されていると告示しているが、この画像は、平成22年7月12日、豪雨による土砂崩れが発生し、愚陀仏庵する前に私が撮影したものであり誤解のないようにお願いします。

松山中学の跡地には、説明版等々が設置してある。

松山中学の跡は、NTT西日本四国事業本部愛媛支社のビルが建ち、西側歩道に面して画像の説明版が設置してある。

きどや旅館から徒歩約3分、愚陀仏庵から徒歩約5分の場所で、愛媛県庁舎の前である。

夏目漱石時代の松山中学で、大正5年に松山市持田二丁目の現在地に移転する。

明治時代の松山中学、後方の山は松山城で山頂には本丸天守他城郭が見える。

現在の画像で、NTT西日本四国事業本部愛媛支社の西側風景で、市電軌道敷きも松山中学の敷地であった。正面の建物は、愛媛県庁舎である。

NTT西日本四国事業本部愛媛支社のビル前で、歩道側に松山中学の説明版が設置してある。

明治29年4月11日、夏目漱石は熊本の第五高等学校教授となり松山を去るに際し、松風会会員近藤我観に書き送った別離の句がる。

わかるゝや一鳥啼て雲に入る・・この句が松山中学の説明版の横に設置してある。

松山中学の説明版。

松山中学は現在、愛媛県立松山東高校となっており、校庭に夏目漱石と、正岡子規二人の記念の句碑が建立されている。

明治28年10月18日、子規が東京に旅立つ送別句会において漱石は「御立ちやる可御立ちやれ新酒菊の花」と励ました。

子規は「行く我にとどまる汝に秋二つ」と答えた。

子規は、その後松山の土を踏む事は無く、漱石は、その翌年熊本に去り松山に来る事は無かった。

画像、右が「御立ちやる可御立ちやれ新酒菊の花」 漱石

   左が「行く我にとどまる汝に秋二つ」 子規

の句碑である。

子規は、東京に帰る途中10月26日〜29日の4日間、奈良に滞在しその時詠まれた句が有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。

明治28年10月26日から子規が滞在した奈良の宿「對山樓」で、現在は画像の様に「日本料理天平倶楽部」となっている。庭は整備された子規の庭があり見学は自由に出来る。この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規が滞在した奈良の老舗旅館であった「對山樓」現在は、日本料理天平倶楽部となり、日本庭園は「子規の庭」として整備され一般公開しており自由に鑑賞できる。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規の庭には、子規も見たであろう古い柿の木があり、對山樓の女性が柿を召し上がれと子規に差し出した。對山樓は東大寺がすぐ近くにあり、鐘の音もよく聞こえただろう。そして「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠われた句が創作された。その柿の木が今も健在である。奈良県は柿の産地、柿の木の寿命は長く樹齢300年から400年のもあるそうだ。

柿の木の下部に見える建物が、東大寺の大仏殿である。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規が滞在した「對山樓」この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句碑があり、石碑の石は、子規の故郷「伊予の青石」を使っている。

對山樓(日本料理天平倶楽部)は素晴らしい心配りで、子規の故郷「伊予の青石」を句碑とし、柿の姿の中に句が揮毫されている。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

こんな事がありました。

法隆寺を観光に行った時「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑を私は見ているが、もう42年も前の事で姿形も印象に残っていない。只その時ガイドさんが、正岡子規が詠んだ有名な句で「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」ですと説明した。ガイドさんに、「正岡子規の出身地は何処ですかと」質問しましたら、すみません・・そこまでは勉強しておりません。・・の答えがあったことは鮮明に覚えている。意地悪な質問をしてすみませんでした。

今年9月下旬に、再度法隆寺に伺う予定です。句碑をよく見て来ます。

昨年、子規・漱石・極堂生誕150年の年であり松山では色んな行事が開催された。

画像は、松山市立子規記念博物館玄関にある「正岡子規・柳原極堂・夏目漱石」で、俳誌「ほとゝぎす」は柳原極堂が創刊した。

俳句雑誌「ほとゝぎす」(後のホトトギス)を創刊の地、松山市北立花8番地(井手神社北側)に記念碑が建立されている。

柳原極堂は、「ほとゝぎす」を創刊し、子規を懸命に支援し続けた人であった。それ故にその生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。

夏目漱石は、松山には一年しか居なかったが、その一年は中身の濃いい日々であった。

湯之町道後商店街に明治16年創業の和菓子屋「つぼや菓子舗」がる。店頭には、「道後名物 夏目漱石の 坊ちゃん団子」と書かれた敷紙の前に団子が置かれている。

坊ちゃん団子は以前「湯晒団子」と呼ばれていた。漱石が通った道後温泉入浴の帰りに食べた団子は、「湯晒団子」小説坊ちゃんが発行されてから「坊ちゃん団子」と呼ぶようになった。

つぼや菓子舗には、漱石が食べた湯晒団子と坊ちゃん団子とは少し形が違うようで、店頭には、夏目漱石が食べたのはこちらと表記している。

漱石が食べた団子は、画像の様に表記している。

漱石は東京と比べると何もいいものはないが、道後温泉だけは東京にない素晴らしい・・と言って坊ちゃん列車に乗り入浴に通ったと言われている。

画像の列車は、漱石が乗った坊ちゃん列車で、伊予鉄道が明治21年ドイツ・クラウス社から輸入した第1号車機関車と客車を、平成14年9月2日復元して市内電車の軌道を走っている。

もう一編成14号列車が運行しており、明治41年ドイツ・クラウス社から最後に輸入した14台目の機関車なのでその意味で1号車と14号車が走っている。

 

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