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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その16 松山市道後湯築城跡の石碑

2021年06月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

昭和3年11月10日昭和天皇即位の大礼を記念して建立された石碑。

湯築城は、日本100名城の一つ、第80番に指定された城で、現在は道後公園として県民に親しまれている。
平成14年9月20日、国指定の史跡公園に、湯築城跡として指定を受けこの公園内に秋山好古が揮毫した「御大典記念」の石碑がある。

湯築城跡には、資料展示室があり学芸員が勤務している。

元・学芸員の 柴田氏から、秋山好古が揮毫した立派な石碑が道後公園にありますと連絡を受け取材に行ったが、詳しい場所を聞かずに行ったので道後公園特に西側ばかり探したので発見できず探すのに一苦労した。

所在場所は、湯築城跡(道後公園東グランド)の北側にある「ゆうぐ広場」にあった。

石碑取材には、現地に行ってもなかなか発見出来なく探索に苦労した石碑も数基ある。

画像の石碑は、松山市道後公園(鎌倉時代伊予の守護河野氏の居城・湯築城跡にある御大典奉祝記念碑である。

秋山好古揮毫石碑

1、碑 文:御大典奉祝記念

2、所在地:松山市道後公園 国指定史跡 湯築城跡

3、揮毫者:陸軍大将 秋山好古

4、建立者:大日本国粋会愛媛本部

5、揮毫年月日:昭和3年11月

6、石碑の大きさ:高さ3m25cm 横幅1m94cm 厚さ91cm

所在地:松山市道後公園「東グランド・ゆうぐ広場」

昭和3年11月:大日本国粹會愛媛本部が建立した。

昭和3年11月10日、京都御所での即位の大礼儀式の一幕。

昭和天皇即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱したとある。(国事行為の儀式で、最高の皇室儀礼)

即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼・または御大典とも称され、秋山好古が揮毫した石碑が現在53基発見されているが、御大典記念の石碑は4基ある。いずれも愛媛県内に建立されている。

松山市道後公園(湯築城跡)

東温市北方、揚神社

八幡浜市松柏、覚王寺

上浮穴郡久万高原町、三社神社

日本100名城第80番に指定されている湯築城のスタンプ。

画像は、手前に中世鎌倉時代に築城された湯築城跡(道後公園)最後の城主、福島正則(賤ヶ岳の七本槍の一人)でその後廃城となる。

画像上に見える山が近世に築城された松山城で築城したのは初代松山藩主、加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍の一人)です。

平成14年9月20日、文部科学省から指定を受けた「国史跡 湯築城跡」の表示版です。

昭和62年10月から12年間に及ぶ埋蔵文化財発掘調査も終わり、発掘した遺構を元に復元された中世の城「湯築城跡」として平成14年4月12日開園した。

画像は、湯築城跡正面入口で、湯築城時代は搦手で大手は東側にあった。(現在は裏口となっている。)

所在地は、〒790-0857 松山市道後公園1 管理者は愛媛県。

市内電車道後公園前停留所の直ぐ前にある。

では、これから簡単に湯築城跡とそれに関わる事柄をご案内しましょう。

画像は、湯築城跡資料館内にある湯築城の模型で秋山好古揮毫の御大典記念の石碑は、子規記念博物館の右側にあります。子規記念博物館も湯築城跡敷地内です。

昭和63年から埋蔵文化財発掘調査が12年間実施され、発掘調査により多種多様の遺物約25万点も出土された。

家臣団の居住区(西側)庭園区(中央部)上級武士の居住区(東側)など機能を分担していたことが発掘調査で判明した。

愛媛県は、当初の計画を日本庭園を造築する予定であったが、発掘調査で判明した遺構が予想していたものよりも貴重な遺構が発掘され、これを後世に伝えるため史跡公園として、散策・休憩をしながら楽しく歴史を学べる場所として設計変更した。

湯築城跡(道後公園)平面図。

湯築城は、中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として約250年間存続した城跡で、築城は建武1年(1334)~建武3年(1338)に築城されたと推定されている。

天正13年(1585)全国統一を目指す豊臣秀吉の四国征伐の命を受けた小早川隆景に攻め込まれ河野通直は降伏、小川隆景が城主となり、その後福島正則に受け継がれ湯築城は廃城となる。

なお、この時代の城には天守はなく、天守が造られるのは織田信長が安土城を築城してからで、信長が築城したものは天主と称した。

湯築城跡、家臣団の居住区の一部で、昭和28年愛媛県立道後動物園が創立、県内唯一の動物園として多くの方に親しまれてきたが、昭和62年10月、道後動物園は伊予郡砥部町に移転、その後が現在の湯築城跡史跡公園として整備された。

現在松山市の人口は、514,900人全国の中堅都市として繁栄しており街の中心部、道後温泉を近くにひかえる地で、都市開発が行われ他の施設が出来てもおかしくない場所に中世の遺構が現存するのは全国でも珍しい貴重な遺構である。

中世の城が平地に築城されているのは珍しく、防御するのは大変であるが、反面攻めるのは容易い。よって中世の城は殆ど山間部に築城された。

湯築城跡、上級武士の居住区で外堀と内堀がよく見える。

外堀は当初よりも幅が狭くなっている。それは、道路整備等々開発され外堀を埋め立てたためである。

湯築城跡管理棟にある資料展示場。

湯築城跡、家臣団の居住区に復元された武家屋敷の建物内部で、発掘調査の様子や出土品が展示されている。

全国でも珍しい貴重な土塁の展示室が造られており、土塁の築造方法などが身近に見学出来る。

上級武士の居住区内で、時より結婚式の前撮り写真撮影風景を見ることがある。

外堀の一角に、播州赤穂から贈られた「ハゼの木」が植栽されている。

松山市道後公園(湯築城跡)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂から贈られたと言う、赤穂義士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し保存運動をしている。

松山藩では大石主税、堀部安兵衛等赤穂浪士10名を預かり江戸中屋敷で丁重に持て成した。
 大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した松山藩士宮原久太夫は、両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養し丁寧に扱った。
 後にこの事を知った播州赤穂の住人は、赤穂特産のハゼの木を贈り、感謝の気持ちを表したとされている。

同組合の梅岡茂雄総代によると、縁のハゼの木は、かっては石手川の堤防や道後公園沿いに30本程植えられていたが、道路拡張、護岸工事等により、現在の一本を残すだけとなった。この為40年前に梅岡さんの父親が愛媛大学農学部教授の管菊太郎氏(故人)に調査依頼した結果、播州赤穂から贈られたものと確認したと言う。

立て看板を作った同市岩崎町の森博さんによると、「当時、木蝋燭の原料として貴重だったハゼの木を贈ったというには、赤穂の人にとってよほど、松山藩の赤穂義士に対して対応が嬉しかったのだろうと」と思いを巡らせている。

以上は、「平成11年1月22日付けの愛媛新聞に掲載された。」

播州赤穂から贈られて来たハゼの木の説明板。

松山市道後公園(中世の城跡・湯築城)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂浪士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し、保存運動をしている。

松山市末広町にある興聖寺では、地元商工会議所が中心となり毎年12月14日、木村岡右衛門、大高源吾のお墓にはお供え物と献花がされ、その右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられる。両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、昭和39年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在まで松山の師走の風物詩として毎年開催されている。

松山市末広町商店街を行く義士行列隊。

コロナが蔓延してからは中断されている。

松山義士祭には、大高源吾、木村岡右衛門のお墓にお供え物と献花がされ、右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられる。

大高源吾の辞世の句、「梅で呑む 茶屋もあるべし 死での山」

木村岡右衛門の辞世の句,「思ひきやわが武士の道ならでかゝる御法の縁にあふとは」

イタリア大使館。(旧伊予松山藩江戸中屋敷・東京都港区三田)

伊豫松山藩が預かった赤穂浪士は松山藩江戸中屋敷で、丁重に持て成した。

この地は、現在イタリア大使館となっており、大使館庭園には赤穂浪士の事柄を石碑に記録として記して建立し保存されている。

参考:伊予松山藩がお預かりの赤穂義士は下記の通りである。

大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳

堀部 安兵衛武庸    二百石馬廻           33歳

中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳

木村 岡右衛門貞行   百五十石代官          45歳

岡野 金右衛門包秀   部屋住(亡父二百石物頭)    23歳

不破 数右衛門正種   先知百石普請奉行        23歳

菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳

千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳

貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳

大高 源吾忠雄     二十石五人扶持近習       31歳

(松山義士祭実行委員会資料引用)

イタリア大使館(旧伊予松山藩江戸中屋敷)では、赤穂市にある大石神社から宮司を招いて赤穂浪士の慰霊祭を行っている。

平成21年5月11日、伺ったとき撮影した赤穂市にある大石神社参道。

画像は、湯築城跡に建立された当時の秋山好古の騎馬像。

好古は、生前「銅像創るな・石碑もいらぬ・家も要らない・墓も創るな」と言い残し昭和5年11月4日:東京陸軍病院で逝去 72歳の大往生であった。

教師として社会人になり途中軍人の世界に身をおくが、晩年北豫中学校長として世を終え。・・軍服と言う甲冑を着ていた時期は長かったが中身は教育者であった。

画像の騎馬像は、昭和11年松山の関係者がもうそろそろ銅像を創っても好古さん、許してくれるだろうとの事で道後公園の西側に建立した。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で潰された。画像は、建立当時の秋山好古騎馬像である。

当時の建立地は、現在伊佐庭如矢の顕彰碑がある後方に東屋がある辺りに建立されていた。

秋山眞之の立像である。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。眞之が連合艦隊先任参謀として、戦艦三笠艦上にあったときの軍装姿である。銅像の表には、東郷平八郎元帥の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられている。銅像は先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。しかし「智謀如湧」の四文字の銅板は関係者が残し保存した。現在は、梅津寺の銅像の台座に設置されている。

昭和38年に石手寺に再建され、昭和43年9月に梅津寺へ移された。画像は、金属供出される前の銅像である。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して建立された秋山眞之の銅像を兄好古が見る姿写真。道後公園に建立されていた当時の写真である。

しかし両名の銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。

兄である好古が弟眞之を「淳、お前はお国の為に良く働いた。」・・と称えている姿に見える写真である。

註:淳とは、秋山眞之の幼少期の名前淳五郎で、元服して眞之となる。

  正岡子規も、淳さんと呼んでいた。

湯築城跡(道後公園)北側にある、松山地方気象台が管理する「ソメイヨシノ・観測用標本樹がる。

松山地方気象台はこの、ソメイヨシノ・観測用標本樹で昭和28年から観測を始めた。

平成23年までは、ソメイヨシノ・観測用標本樹に設置された立ち入り禁止の柵がなかったが、やっと平成24年に柵が造られた。開花時期になると松山地方気象台の観測員2名が午前中1回、午後1回やってきて観測をし、観測員2名が5輪以上の開花を確認すると松山地方のソメイヨシノ桜の開花を宣言する。

開花すると大勢の市民は花見を楽しむ。松山市一番の桜の名所である。

しかしコロナが蔓延してからは花見が出来ない状態である。

日本三大八幡造のある伊佐爾波神社。

この神社は伊予の守護、河野氏が湯築城の守護神として崇拝していた。湯築城、築城の際、湯築城にあった神社を今の地に移し、その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めた時、一番社として武運の祈願所となった。
現在の社殿は、伊予松山藩松平第三代松平定長が、徳川将軍から命じられた流鏑馬の必中祈願のお礼として建替えたもので、京都の石清水八幡宮を模して建造、大分の宇佐八幡宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りで、国指定の重要文化財に指定されている。

日本三大八幡造神社は

大分県:宇佐八幡宮(国宝)

京都府:石清水八幡宮(国宝)

松山市:伊佐爾波神社(重要文化財)

最後に、現在保存修復真っ最中の国指定重要文化財「道後温泉本館」の現状です。

又新殿(皇室専用の湯場)は完成し、次は本館中心部(玄関棟を含む)の保存修復になります。現在は大きな鉄骨の工事用屋根の移動工事の準備作業を行っております。

保存修復工事は、令和6年12月20日までかかります。

画像は、令和3年6月20日現在の道後温泉本館です。

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